当事者概念の出自
山下:ここまで、それぞれの不登校とのかかわりに即して、話がかなり個別の文脈のディテールをたどってきた感じがありますが、少し観点を変えて、貴戸さんに、当事者概念について解説していただければと思います。
貴戸:はい。ちょっと講義めいて恐縮なんですが、いまやよく使われている「当事者」という言葉が、どういう出自を持つ言葉で、どういうふうにアカデミズムのなかで論じられているかについて、紹介したいと思います。
最初に「当事者」という言葉がアカデミズムのなかで使われたのは、上野千鶴子さんと中西正司さん共著の『当事者主権』(岩波新書2003)という本です。その際、上野さんは、「当事者」という言葉を「当事者主権」という考え方を表明するために使った言葉だと言っています。上野さんは同書で次のように言っています。
当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも――国家も、家族も、専門家も――私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることをゆるされない、という立場の表明である。
上野千鶴子、中西正司『当事者主権』岩波新書2003
専門家など権威のある人、あるいは親など庇護する立場にある人が、あの子はこういう子だからとか、あの子に必要なものはこういうものだと、本人を飛び越えて決めない。自分が何であるかを語る権利は本人自身が持っているし、自分がどうしたいかを決めていくことのできるの唯一の存在は、本人自身なんだということです。
そこで、なぜ当事者という言葉を打ち出す必要があったのか。当事者に近い言葉としてマイノリティという言葉はあったんですね。マイノリティは被抑圧者、社会的少数者と訳されますが、社会から抑圧を受けている人たちのことですね。社会から抑圧を受けて、劣位のカテゴリーに自分を同一化することが迫られている。劣位のカテゴリーというのは、たとえば、男性に対する女性、健常者に対する障害者などです。そこで生まれてくるのは被抑圧性であり、社会から規定された座り心地の悪いイスに座らされるという受動性です。
当事者も、社会からなんらかの抑圧を受けて、劣位のカテゴリーに同一化することを迫られている、というところまでは同じです。しかし、そこで「社会を変える」というニーズを持つのが当事者だというんですね。自分をこんなふうに劣位に置くような社会を変えたい、自分をマイノリタイズしている社会を変えたいというニーズ。そういうニーズを持ったときに、人は当事者になる。当事者は〈なる〉ものであって、属性ではないというのが要点だと思います。マイノリティ属性を持つ者が、そのまま当事者ではないんですね。ニーズを持つことで当事者に〈なる〉という構築性がある。それが『当事者主権』という本に書かれていたことです。
ところが、その後、当事者という言葉が普及して、概念の広まりとともに「当事者概念のインフレ」が起こるんですね。家族も、家族としてのニーズを持っているから当事者ですとか、専門家や介助者だって悩んだり困っていてニーズがあるので当事者です、など。何かおかしいということで、上野さんは、その後の本(上野千鶴子、中西正司『ニーズ中心の福祉社会へ』医学書院2008)で、新たな位置づけを考えます。「一次的ニーズを持つのはマイノリティ属性を持つ本人。周囲の人はその人がいることによって派生的ニーズを持っている(にすぎない)。当事者とは「一次的ニーズの帰属先」である」というんですね。
つまり、家族が当事者であるには、まずは本人のニーズがあって、家族のニーズはその派生である。専門家や介助者なども同じですね。そこを分けようということです。当事者/非当事者の境界を設定して、前者の優位性を強調した。
しかし、それに対して、若手のひきこもり研究者、関水徹平さんが「属性による定義が密輸されている」と批判しました(『「ひきこもり」問題と「当事者」――「当事者」論の再検討から』年報社会学論集2011)。上野さんは『当事者主権』では「当事者は〈なる〉ものって言ってたのに、本人だけが「当事者」なら、結局当事者は〈である〉もの(=社会的弱者としての属性)ということになってしまうではないか、と。 上野さんはその批判に対し、「概念の混乱は認めます」と言いつつ、でも、社会的に抑圧されてるという客観的な事実のレベルと、個人が社会を変えようとしているという主体性のレベルは、両方評価されなくちゃならないのだから、批判は当たってるけど修正はしません、と応答しました(上野千鶴子2013「『当事者』研究から『当事者研究』へ」副他義也『闘争性の福祉社会学』)。なぜなら、一番大事なのは、その概念が「使えるかどうか」ということだから、と。上野さんは、「当事者」という用語は「当事者」と「非当事者」を区別して前者を後者より優先的に位置づけるために、戦略的に導入したものだと言うんですね。当事者概念が支持されるのは、そこに「認識利得」があるからだ、と言います。
「当事者」からこぼれるもの
貴戸:これを踏まえて、私たちが当事者という概念を使うとしたら、どんなふうに考えていけるのか。たしかに、いろんな限界をはらむ、線引きをしている、何かを単純化して切り捨てている言葉ではあるんだけれども、使い始めた人が、使える局面があるんだったら使えばいいと言っていることを受けて、みなさんと考えたいと思います。
「わたし(たち)」が向き合っている問題で、「当事者」という言葉は「使える」ものなんだろうか? 「使える」としたら、どんなふうに「使える」のか、「使えない」としたら、どんなふうに「使えない」のか。そもそも「わたし(たち)」は、どんな問題に向き合っているのか。それぞれの足下の文脈のなかで、ちゃんと考えないといけないと思っています。
山下:『当事者主権』という本は、上野千鶴子さんと中西正司さんの共著で、中西さんは障害者運動でCIL(自立生活センター)をやってきた人ですよね。障害者運動において「当事者」という言葉が使われていたものを、上野さんが「当事者主権」というかたちで、クリアカットに打ち出したということかと思います。障害者運動について、ここでくわしく触れる余裕はありませんが、親の愛や専門家の善意のもとで主権を奪われてきた歴史があって、青い芝の会をはじめ、障害者本人がそれに対して闘ってきたわけですよね。「当事者主権という言葉は、たいへんな重みを持つものだと思います。
ただ、「当事者主権」といったときの当事者というのは、ハッキリとニーズをもった、強いかたちで主張できる人が当事者というわけですよね。それは、この社会のあり方を問うというニーズだということですが、その一方で、強い個人がハッキリと主張することで、そうした人たちが“イチヌケ”で、この社会で認められていくというようなことも起きてきたように思います。フェミニズムでも、そうした批判はなされてますね。同じことが不登校をめぐっても起きてきたように思います。
くり返し言えば、そういう語りが持った意味は大きいわけで、ある時期には必要だったもので、果たした役割はあると思います。ただ、そこだけでは片づかない問題があって、問い返しが起きている。今日は、不登校を軸に話しましたが、ほかの当事者運動でも同じ問題が出てきている。
それから、それぞれの当事者運動というのは、同じ社会構造のなかで起きている問題の局面のちがいでもあるわけですよね。いっしょに考えられることがあるはずだけど、それぞれの当事者の問題に閉じ込められてきた面もあるのではないか。当然、ひとつの当事者の局面からはこぼれる問題もある。そこを、これまでとは少しちがうかたちで対話できたり、考え合うことのできる回路をつくれないか、と思っているんですね。ひとつの当事者性をともにすることで、感じられる安心感はあるし、それは大事なものだと思いますが、その限界もあるように思います。ひとつの当事者性、個別の文脈を大事にしながらも、そこだけではくくれないものを考え合うような回路をつくりたいと思っているんです。
これは私個人のアイディアということではなくて、これまで、づら研の場でも、ちょこちょこ出てきたことでもあると思うんですね。テーマによって、踏み込みたいけど、踏み込みきれないことがある。あるいは、参加者が、自分はここにいていいのかと感じながら参加することもある。それは、テーマによって、そう感じることがあるということかなと思います。いろんな当事者性を持つ参加者がいるので、あるテーマで話すと、ぴったりに感じることもあれば、疎外感を覚えることもある。ひとりの人は、ひとつの当事者性ではくくれなくて、いろんなものが折り重なって、その人がいる。ですから、そういうズレや疎外感は必然的に生じるものだと思います。でも、そういうズレこそ大事なところだと思うんですね。そこから考え合いたいことがある。
たとえば、昨年、生田武志さんを招いて動物の問題について学習会を開いて記事にしましたが、動物問題も、私たちが生きづらいと感じている同じ社会のなかで生み出されている問題で、根っこは同じなわけですね。そういうさまざまな当事者性、文脈がクロスして対話できるようなメディアをつくりたいと思っています。
自分で話していても、ちょっとリクツっぽいなとは思いますが、とりあえずここで区切って、みなさんと話し合いたいと思います。
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