当事者とメディア
山下:ほかの方、いかがでしょう?
もと:当事者という言葉自体が広まりすぎて、人それぞれ言葉の意味が一致してないのかなと思いました。私のなかでは、当事者というのは、個別を尊重しようということだと思ってます。当事者というのは、障害者運動の流れから出てきた概念で、ニーズを持つから当事者になるということでしたが、ニーズがわからない人に対しても、わからないからこそ見守ることが大事なんかなと思うんですね。わからないということも、いまのその人のありのままの姿で、無理にニーズをハッキリさせましょうということではないと思います。ニーズを明確にするとか自己決定するとか、それにともなう責任が生じるというのは、すごく難しいことだと思います。自己決定できる人というのは、ある意味ではとても力のある人で、抑圧されてきている人というのは、失敗するのも怖いし、人にどう思われるのか怖くて、びくびくしていて、自分の欲求や希望さえも、キャッチするのが下手になっているんですね。そういう人が、自己決定してくださいねと言われたところで難しい。なので、そういうことも含めて、個別を尊重しながらいっしょに考えていこうというのが、私のなかでの当事者という言葉の使い方です。
そういう意味では、貴戸さんが言っていた、ニーズが何なのかがわかるまでのプロセスがとても重要で、そのあたりが大事にされる社会であってほしいと思ってます。
疑問に感じたのは、山下さんが言っていた、当事者がメディアに出て代表者のようになることで、つらくなる人もいるという話です。づら研では、テーマによって当事者性を感じられないこともあって、ここにいていいのかなと思う人もいるけど、そういうことがあるのは必然なのでOKだと言っているのに、矛盾しているように思いました。私は、メディアに出ている人がいても、その人が代表しているなんて思わない。聞き手がどう思うかによるんじゃないでしょうか。
山下:当事者という言葉は個別を尊重するものだというのは、なるほどと思いました。そういう意味では、ひとつの当事者が集まる場でも、それぞれのちがいを尊重して、いっしょくたにしないことは大事だと思います。
もとさんが疑問に感じられた点についてですが、私が申し上げたのは、マスコミはサクセスストーリーを求めがちで、それは語る本人にとっても抑圧があるということです。本人が悪いというよりは、メディアの側の聞く耳の持ち方の問題だと思います。不登校新聞の創刊の動機のひとつには、そういうこともあったんですよね。マスコミでは枠組みが決まっていて、何を言っても、そのパターンでしか報道されない。そうではないかたちで自分たちで発信したいということがありました。
一方で、貴戸さんがおっしゃっていたように、何かを語ろうとすると、一定、切り落とさないと語ることができないというのも、その通りだと思います。しかし、切り落とされてしまうことにも、ちゃんと目を向けたいと思っていて、ハジコミは、そういうメディアにしたいと思っています。
もと:マスコミに偏見があって、その偏見から編集がなされたり、当事者の語りをハッピーエンドにする枠組みが問題だというのはその通りだと思います。でも、白か黒かで人間は生きられないですし、葛藤を持ちながら、しんどさを抱えながら、それでもメディアに出て発信しているなら、それを否定することはなくて、それはそれで意味のあることだと思います。なぜ、つらいと思いながらメディアに出たらいけないんでしょう。
山下:メディアに出たらいけないとは、一言も言っていないです。メディアに出る当事者のなかには、そこで切り取られる語りの一方で、しんどさを感じていても、言えないでいる苦しさがあるのではないか、その抑圧面がもたらしている問題を、私は感じてきたんですね。
もと:でも、やっぱり、ネガティブな印象を持っているように感じるんですよね。言葉でどう言っているかだけではなくて、肯定はしてない感じがします。
山下:そうかもしれません。言外に、にじんでいるものがあるのでしょうね。もとさんのおっしゃるように、メディアに出る人が葛藤を持っていて、切り捨ててしまう面にも目を向けているのであればよいのですが、目をそむけているように思えたり、居直ってしまっているように感じることがあると、それは批判したいという気持ちはあります。
貴戸:私個人のことを言うと、20代のときに本を書いて、そこで自分が不登校だったとカムアウトしたかたちになったんですね。当時、すでに不登校した人の手記はたくさん出ていて、私の書いたものは、とりわけ常野くんとの共著『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』は、そういう手記のひとつとして読まれたように思います。それで、支援の場や親の会、自治体の研修会などに呼んでもらって、当事者として話す機会があったんです。私は、そういう場には、すごく複雑な気持ちで行っていました。なぜかというと、私が行くと、サクセスストーリーとしてとられるんですね。昔は不登校だったけど、有名大学を出て本も書いている、親御さんの希望です、みたいな……。そういう捉えられ方には、すごく違和感があったし、私の書いたことは、そういうことを伝えたかったわけではない。
それでも、なぜそういう場に出向いていたかというと、聞いてくれる人のなかで、たとえば10人中7人がサクセスストーリーとして受けとって、2人が「でも不登校だったんでしょ」とさげすみの目で見ていたとしても、1人が「不登校しても生きている人がいるんだ」と思ってくれたら、それだけで意味があるかなと思っていたんです。不登校して、大人になって生きている人を初めて見たと言われることもあるんですよね。なので、いろいろ違和感があっても、そういう人が1人でもいてくれたら、それで意味があるんじゃないかと思っていました。なので、自分の経験にひきつけても、山下さんのおっしゃるような懸念はわかりますし、もとさんが言うように、当事者として語ることには、もっといろんな要素、いろんな文脈があるということもわかります。
山下:まだ発言のない方、いかがでしょう。
市民社会からはみ出すもの
太郎:人間は誰もが当事者である面もあれば、そうでない面もあると思います。当事者である部分が大きくなる場合と、小さくなる場合がある。それは、フタをされている場合もあるのかもしれないですが。当事者が自己理解と自己受容を深めていくことで、もっと深い知恵が当事者のなかから出てくるのではないか。当事者性のなかには、貴重なものがあるのかもしれないと思います。
先日、芸術をやっている70歳過ぎの女性と話をしたんですが、彼女は小学校のころから学校に行くのがイヤで、行っても保健室に行っていたそうなんですね。理由を聞いたら、みんな、すごく裏表のある言葉ばかりを話すので、その裏表がものすごくイヤだった、もっと正直にいかないものか、というんです。たしかに、彼女の絵には純粋さがあって、それは、本来みんなが持っているんだけど、世の中で生きていくために忘れている、ごまかしているものではないかと感じました。その人は、そういう価値を持ちながら生きている。そのために苦しみながらも自分を育ててきた面がある。その人も社会を恨んでいましたが、それを社会に訴えるというよりは、芸術の世界に拡げていった。そういう意味では、自分の存在を深く知ることが大事ではないか、自分に対する正直さが大事ではないかと思いました。ですから、ふだんは忘れられているような、人のそういう面を引き出していくことが、いい世の中にしていくことにもつながっていくように思います。
山下:たしかに、個人と社会の関係というとき、問うべきは制度だとか法律だとか、社会の仕組みの面だけではないでしょうね。自己を深く知ることが、結果として社会を変えていくことにつながるというのは、たしかにそうかもしれないと思いました。
森下:僕も、中1から不登校した経験があって、それ以来、学校とは反りが合わなかったです。ほかの方も話されていましたが、僕の場合も、ニーズというものが自分のなかにハッキリとしたかたちであったかといえば、なかったように思います。中学生のころは、すごいいらだちとして表れたり、なんらかのかたちで外には出ていたとは思いますが、ハッキリと社会に対するニーズというかたちにはならなかった。それはいまも同じです。ふだんから意識しているわけではありませんが、社会で生活しているなかで、やりにくいと思うことがあって、そういうことがあると、不登校当時を自分の始発点として考えるところもあります。
づら研にしても、今回のハジコミにしても、言葉優位で対話を進めようという場ですね。それは大事なことでもありますが、僕自身は、それ以前に、言葉にならないところをくみとることが大事だと思っています。不登校もひきこもりも、基本的に市民社会のなかのできごととして扱われますが、その根底には、どろどろとしたエネルギーみたいなものがあって、それは混沌としていて、言葉にも理論にもならないもののように思います。そういうものは市民社会をはみ出しているのではないかと思います。そういう部分がハジコミのなかで描かれていくといいなと思っています。
山下:そうですね。居場所のように、とくに目的がなくてもいっしょに過ごして、いっしょにご飯をつくって食べて(コロナの影響でご飯は中止にはしていますが)、言葉にならないところの何かをともにすることがベースにあると思います。言葉で語ることのできることは、どうしてもかぎられている。けれども、語ることによって見えてきたり関係を結べることもある。
私自身、言葉にならないところの何かに共鳴してきたように思います。そのためなのか、ある枠組みに固まりかけると、それはちがうと直観して反発するところがある。自分自身の立場を考えても、フリースクールのスタッフ、不登校新聞の編集者、ひきこもりの支援者など、そのどれにもなりきらず、むしろ、そういう枠組みからこぼれるもの、はみ出すものを大事にしてきたような感じがします。それがなぜなのかと聞かれても、自分でもよくわからないんですよね。ハジコミを始めようと思ったのも、そのよくわからない部分に揺り動かされている気がします。
貴戸:言葉にならない部分が大事というのは、ほんとうにそう思います。山下さんには、フリースクールとか、なるにわとか、実践の足場がありますよね。言葉にならないものを言葉にならないままで見たり聞いたり感じたりする足場がある。でも、私はすべてを言葉にしないといけない世界に生きているということを、あらためて思いました。言葉で表せるものにはどうしても限界があります。私は、不登校についてさんざん書いて、しゃべってもきたけれども、その根底には、言葉にならないものがすごくたくさんあったんですよね。とくに私の場合は7歳のときのことだったので、そもそも言葉にならなかった。10代になってから文章を書いたりしてきましたけど、あのときの経験には絶対にリーチできない。その限界を踏まえたうえで、できるだけサボらず丁寧に、ぎりぎりまで言葉にしていくしかない。どうして研究者という言葉にする仕事をしているのかは、自分でもわからないですね。また、そっちに行ったなら、言葉にならないものは無視してもいいんだけど、そういうふうにもなれない。言葉にしたものに対して「それは何かちがう」と現場から突っ込まれる機会がなくなったら、私のようなタイプの書き手は書くものが腐るという直感があります。
たいへん抽象的で申し訳ないですが、そういう私にとって、づら研は大事な場です。人がいて、身体性が介在して、言葉にならないものが現出する場なので、声をかけてくれた山下さんにも、参加しているみなさんにも、感謝しながら、いつもやってます。
山下:ある当事者だけで固めることにはあやうさもあるので、学者も含めて、いろんな世界を結ぶような対話の機会をつくっていきたいんですよね。どんな世界にいる人でも、そこに居直って固めている人とはコミュニケーションが難しいですが、居直らずに揺らいでいる人とは対話ができるように思います。そこには何か可能性があるように思います。まだ、発言のない方、いかがでしょう。
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