依存と自己コントロール
では、依存の病理化は、どのようになされてきたか。これに一番貢献したのがアルコール依存と薬物依存です。物質依存とも言いますが、中枢神経系作用物質が脳にダメージを与えて、それによって嗜癖が起きる。ほかにも、行動依存と言われるものがあります。たとえば、ギャンブル、買い物、ゲーム、最近だとスマホなんかもそうですね。物質が中枢神経に作用しているわけではないけれども、その状態がアルコール依存や薬物依存に似ていると考えられて、行動依存と名づけられました。
こうした依存症の状態について、ジェリネックという人が、自己コントロールの喪失が病理の中核にあるとして、意志の病だと言ったんですね。やめたくても自分ではやめられない。ただ当時は、それなりに必要に迫られてのことだったんだと思います。アルコール依存症の人に対する差別が横行していて、それに対して、これは本人の責任ではない、病気なんだと説明しようとした。
おもしろいのは、その人がアルコールや薬物をどれくらい使っているかという話ではないんですね。あくまで自己のコントロールの喪失が問題なんです。そこには、人間は自分をコントロールできるものだという近代的な個人像がある。人間は自己の自由意志をもって選択決定する。それが前提になっていて疑わない。その反面、自己コントロールできない人を病気にしていく。つまり、病気が増えていったのではなく、自己への意識が増大していったのだとも言えます。
96%が共依存?
もうひとつ、共依存の話もしておきたいと思います。これは臨床場面から生まれた概念で、もともとは、アルコール依存症の夫と夫を支える家族(多くの場合は妻)の行動を説明するものでした。妻が夫を献身的に支えることで、かえって夫のアルコール依存症の状態を存続させてしまっている。暴力をふるわれたり、お金を勝手に使われたり、一見、被害者にしか見えない妻が依存症を支えている。それは、ある意味で共犯関係ではないのか。それをイネーブリング(Enabling)もしくはイネーブラー(Enabler)と言います。つまり、アルコール依存症は関係性の問題だということです。病理の本質は家族のなかの関係性にある。夫が暴力で妻を従わせているだけではない。暴力をふるわれても夫を支えるという献身的な、一見、被害者にしか見えない妻は、自己を喪失した病人ではないのかと。それが共依存ということですね。
そして、アルコール依存症の臨床場面で言われていた共依存は、アメリカを中心に、あらゆる人間関係全般に拡がって適用されるようになります。家族にアルコール依存症者がいない人でも、共依存状態にある人はたくさんいると言われはじめた。ある本(アン・ウィルソン シェフ『嗜癖する社会』(誠信書房/1993年刊))では、アメリカで何らかの共依存状態にある人は国民の96%だと言われたそうです。そうなると、もはや残り4%のほうが異常なんではないかとも思えてきますね(笑)。
他者を必要とすることを病理とみなすのが近代社会なんですね。しかし、生きていくうえで誰も必要とせず、自分で自分をコントロールしないといけないという近代社会自体のほうが病理的ではないか。そもそも無理があるわけですね。ほんとうにこじらせているのは何なのかを考える必要がある。
依存ではなく支配
心理カウンセラーの信田さよ子さんは、共依存は依存関係ではなく支配関係だと言っています。依存するというのは負の関係ではない。必要に応じて、他者によりかかることで、より豊かに生きることもできる。同じ平面で、ほかの人にもたれかかるのはラクだし、重かったら外れたらいい。ともに依存することは悪いことではない。でも、共依存の関係性では、相手に怒鳴ったり、暴力をふるったり、強制したりする一方で、ひそかにやさしげで狡猾な駆け引きで相手を支配することもある、と。アルコール依存症の夫を支える妻の場合も、そういうかたちで相手を支配しているとも言える。これは依存ではなく、おたがいを支配しているのではないのか、ということですね。依存関係は問題ではないが、そこにひそむ支配―被支配関係は問題だということです。
そこで、この観点をもっと拡張できるのではないかと思ったんですね。○○依存と言われているものは、○○支配ではないのか。たとえば、下表のように。
アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存、買い物依存、インターネット依存、原発依存、対米依存 | アルコール支配、薬物支配、ギャンブル支配、買い物支配、インターネット支配、原発支配、対米支配 |
アルコールでも薬物でも、依存ではなく、それに支配されていることが問題です。もっと拡大解釈して、たとえば原発依存でも対米依存でも、依存というよりも支配と捉えたほうが実態をよく説明できるのではないでしょうか。依存だと、自己コントロールできない、意志の弱い個人の問題になってしまいますが、支配と言った場合、何に支配されているのかという構造の問題を問うことができる。それは、私たちの抱える生きづらさを考えるうえでの助けになるのではないでしょうか。人びとから「依存」を奪い、弱者化させている「支配」の構造こそ問わなければならない。
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