津路:桜井さんは、生活保護のケースワーカーをしていたんですよね。生活保護でも、就労能力があるのに就労しなかったら、打ち切りということになったりするじゃないですか。実際の福祉の現場では、寄り添いも伴走もないように思いますが。
桜井:支援論だけではダメなんだと思います。支援のこういう方法がいいという話ではない。それだと、自分たちの置かれている大きな枠組みを問うことはできない。生活保護制度を変えずに、ソーシャルワーク技術を高めても、より周到なやり方で、本人を納得させて、就労させるみたいなことしかできない。
津路:そうすると、禅寺で修行するみたいな話になってしまうような気がします。いまの社会では、要はカネの話になりますよね。ベーシックインカムだって、いまはないわけですし。
桜井:たしかに、いまの社会のなかで、方向性のない導かない支援なんて実際にあるのかと言ったら、難しいですね。
はる:支配されない空間、アジールが大事だということでしたが、でも、いまの社会でどこにあんねんってことですよね。「裸の大将」で知られる山下清は、知的障害の施設から脱走してぶらぶらしていたそうで、あれは「自立」だと思うんですね。今日の話と言葉の意味はズレますけど、どこにも所属しなくて、自分の正体が問われない。正体がばれたら、逃げ出す。固定されたところではなくて、ぶらぶらする感じがすごく好きです。いま、僕はひきこもりみたいな生活をしているけれども、働いてないというだけで、人とコミュニケーションする機会がなくなってしまう。でも、たとえば西成に行くと、いきなりおっちゃんが話しかけてきて、会話が始まる。「にいちゃんな、このコロナはタタリやねんぞ」とか(笑)。西成は、目的とか生産性とか、そういうとらわれから自由でいいなと思うんですよね。
あと、僕はこういう格好(女装)をしているので、女装バーにも行くんですよ。こういう格好をしていると、変わった人と思われて、まじめにならなくていいんですね。ひきこもりの就労支援でも、障害者の支援でも、まじめな人になりなさいっていう圧が強いと思うんです。弱者、マイノリティはまじめになって、秩序をおびやかさないあり方だったら存在してもいいということになっている。僕は、もっとふまじめで、やばいやつになって、秩序をおびやかしたらいいと思っているんです。そういうふうに街をぶらぶらいしていたら、秩序を攪乱できる。僕はそういうふうでありたいですね。
桜井:国家に補足されずに逃げ続けるというのは、いまの社会のなかで難しい気もしますけど、得がたいありようで、そこに希望はあると思います。アジールなんてどこにあるのかとおっしゃいましたけど、たとえば、この場だってアジールだと思います。生産性も高そうではないし(笑)。そのぶん、何かに強制されたり、支配されるような権力性がない。実は、そういうところは、あちこちにあるのではないでしょうか。
ハンセン病療養所で聞き取りをした研究者の有薗真代さんは、音楽会など施設のなかで収容者がつくりだした空間にアジールを見出していました。排除され収容されている空間のなかにも、補足されないアジール的な空間がある。国家、制度、システム、規則、ルールなどは、常に力強くて太刀打ちできないように見えて、でもじつは人間を完全に補足することなどは無理で、あちこちに逃げ場所、スキマ、アジールはあるんですよね。少なくなっていて、見えにくくなっているのかもしれませんが、それを見つけ出したり、つぶされそうになったら逃げ出すということが大事なんだと思います。あと、格好について、実際に実践されているのはおもしろいなと思いました。クィアというのは、まさに、いまおっしゃったようなことですよね。
はる:変わった格好をしたら、デフォルトで変わったヤツと思われるから、ラクになったんですよね。堅苦しいふるまいをしなくてよくなった。
のび太:このコロナ禍でも、生活保護の数は増えてないですね。緊急小口資金で対応しています。でも、あくまで借金ですから、償還免除(返済免除)の特例はありますが、困窮者の困窮度を上げているのではないかと思います。どうなんでしょうね。
桜井:コロナ対応で、生活保護の出番が少なくて、生活困窮者自立支援法と貸し付け制度で対応していますね。それがよいのかと言えば、もちろんよくないと思います。ただ、理想の制度がいきなりできるわけではないので、現状のなかで考える必要もありますね。生活保護はスティグマが強くなっていて、それだけは受けたくないという人も増えていますし、扶養照会の問題や、ほぼ丸裸になってからでないと使えないという問題もあります。それでも使ったほうがいいと私は思いますが、緊急小口資金の場合は、借金ではあるけど、スティグマは弱い。それで、困った人がどんどん貸し付けに流れている。それは不公平だし、おかしいとは思いますが、じゃあどうしたらよいかというと、難しいところがありますね……。
津路:借金をするかしないかは、結局は個人が決めることですよね。個人で決めることはよくないという話でしたが、最終的には個人にゆだねるしかないのでは?
桜井:個人で決定するのがぜんぶダメということではなく、個人が決定したことの責任を個人だけでとるということを問い直したいということなんです。自分で自分のことを決めると思っていても、できないときもある。そのときの調子や、運やまわりとの関係によっても変わる。人はひとりで立っているわけではない。ひとりでぜんぶ決定しているわけではない。
山下:そもそも自分と思っているものも、関係によって成り立っているので、完結したものじゃないですよね。
桜井:たとえば、尊厳死、安楽死を制度化している国では、事前に本人と医者とで何度も面談して、厳格な手続きをとって意思確認をとるんですね。でも、ほんとうに薬が効き始めて、死ぬというときには、やっぱりイヤだと思うこともあるかもしれない。自分の意志や自己決定というのは、そんなに確固としたものではなくて、あやふやなものだと思います。常に揺れ動いている。でも、選んだのはあなたでしょと言われるのは、ちょっとしんどい。なので、そこにあまり重きを置きすぎないということから始めていきたいんですね。
津路:でも、最終的には個人で決定するしかないのでは? 他者にも決めてほしくない、自分でも決めないというなら、どうしろというんでしょう。
桜井:どうなんでしょうね。たとえば、売買春についてはどう思いますか? 自分の身体を売るのは、自分の身体だから、その人の責任だから許容されるべきですか?
津路:許容されるべきだと思います。
桜井:私は、そこは考えてもいいところだと思います。そのとき、その人がいいと思っても、なんらかの危険があったとき、それもその人の責任と言われたらきつい。身体を売ってもいいかどうかは、社会のいろんな状況のなかで決められていることです。それを本人の選んだことだということですませてしまうと、その積み重なりが、そういう自己責任社会をつくっていく。その結果、たとえば難病になった人だとか、生産性のない人は安楽死すべきということになりかねない。私たちの行為は、私自身で完結しないんです。
山下:口をはさんですみません。たとえば、ALS(筋萎縮性側索硬化症)になった人が自発呼吸できなくなったとき、気管切開をして人工呼吸器を入れるかどうか、それから、自分で食事ができなくなったときに胃瘻を入れるかどうかで分かれ道があるそうなんですね。そこで導入しないと死んでしまうわけですが、それは、その人の自己決定です。でも、それは、まわりに迷惑をかけたくないということから、そう決めているのではないかというんですね。まわりが生きていてほしいと伝えていたり、本人も生きていていいんだと思える関係のある人は、生きる道を選ぶことができる。選択とか自己決定といっても、関係がそこに含まれているわけですよね。
津路:でも、最後は自分で決めることでしょう。
桜井:私も、決定も責任も、ないとは思ってません。自己責任もありますよ。でも、自己責任だから、どんなひどい目にあってもいいということではない。どれだけひどい犯罪をしている人でも怠惰な人でも、だからといって、身ぐるみはがされて、外で寝ないといけないということではない。責任とか決定は、個人で完結することではないということです。
みみ:失敗を許す社会だったらいいんじゃないでしょうか。私も、自分で決めたほうがいいと思っていましたけど、たしかに、それで失敗することもありますよね。失敗する権利、失敗しても立ち直れる社会だったら、自分で決定して、まちがっていてもやり直せる。自分の欲求が見えていなかったら、自分で選ぶこともできない。でも、それが見えるまでには失敗することも必要だと思います。
桜井:失敗する権利が必要だというのは、そのとおりだと思います。ただ、やり直せることが必要という話も、気をつけないと、再チャレンジしようとする人しか支援しないという福祉切り下げの文脈に使われてしまう危険性もあるんですよね。それにどう対抗するか。足をすくわれないように、そこは気をつけたいです。
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