当事者グループは
山下:当時、吉野さんが当事者グループで問題意識を共有するようなことはあったんでしょうか?
吉野:当事者グループは、関東と関西で色合いがちがったんですね。関東は人の数も多いから、セクシュアリティごとに分かれた当事者グループがあったんです。関西では、そんなにコミュニティが多くないこともあって、古くからいろんなセクシュアリティの人がごっちゃになる“ミックス”という方向性がメインでした。
私自身は、大学に入ってパソコンルームが使えるようになって、やっとインターネットが手に入ったので、ネットで調べまくって、BBS(掲示板)で自分に近いものを探して、そこに書き込んで交流して、実際に会ってみたりしてました。それもトランス限定ではなくて、いろいろ混じってましたね。
身体については、私も、胸をとって、ホルモン治療を受けて、ペニスをつけるかどうかを考えていたんですね。でも、いろいろ調べてみると、ペニスをつくるには自分の肋骨の軟骨を取り出して、腕とか太ももの皮膚をはがして巻きつけて、みたいな、かなり大がかりな手術が必要なんですね。そこまでできるのかを考えたとき、ちょっと、そういう将来を具体的に描くことはできなかった。一方で、ジェンダー論やフェミニズムを勉強していくうちに、女性は無理と思ったから男だと思っていたけど、その考え方自体がちがっていたんだと気づいたんですね。男女二元論に自分も縛られていた。それで、とりあえず胸は何とかしたいけど、ほかの要素については長期的に考えていけばいいかなと思ったんです。
山下:関西の当事者グループの話をされましたが、大学で京都に来られたということですかね。
吉野:そうです。立命館大学で、自治会の活動をしていました。自分の居場所として当事者のコミュニティを必要とする人も多いと思いますが、私の場合は大学自治会の活動をしていて、そこでの仲間がいい関係だったので、とりたててトランスジェンダーとしてのみの居場所を探す必要はなかったんだと思います。
それと、だんだん自分がハッキリと男性を目指さなくていいと思うようになって、そうなると、典型例としてのFTM(*2)のグループに行くのが怖かったというのもありました。たとえばFTMの人のホームページに「中途半端なトランスはお断り」と書かれていることがあったり、完全な男を目指していない人は偽物、というような圧力が当事者のあいだにもあったんですね。そういうところに行って偽物判定をくだされたり、おまえは男に見えないと言われるのもイヤでした。
山下:そのあたりは、ほかの当事者グループでもあることでしょうし、そこで排除が生じてしまうこともありますよね。ただ、吉野さんの場合は、そこに参加していて排除された経験があるということではなく、そもそも近づけなかったということですかね。
吉野:そうですね。あきらかにちがう、語り方からしてちがうと思ってました。そういう当事者グループでは、「小さいころから自分は男だと思っていた」とか、似たエピソード、セルフヒストリーを持っている人が多かったんですね。でも、自分はそうじゃなかった。
山下:大学の自治会では、トランスジェンダーの当事者性の面ではなく、ひとりの人として自分を尊重され、対話できる感じがあったということですかね。
吉野:トランスジェンダーなんだね、というだけであって、活動できれば、それ以外の属性は何でもいいという感じですね。
山下:そっちのほうが心地よかった。
吉野:完全にそうですね。
貴戸:カミングアウトについての葛藤はどうだったんでしょう。
吉野:カミングアウトも人によってさまざまで、望む性別として通用しないうちは苦痛なので性別移行が進んでから、という人もいれば、自分の移行期を明らかにする人もいます。私の場合は、カミングアウトしないで女性として扱われ続けることのほうが苦痛だったので、ヘンな目で見られるかなとも考えたけど、どっちをガマンするかと言えば、ヘンな目で見られるほうがマシだろうと思って、カミングアウトしました。
貴戸:高校までの仲間へのカミングアウトはどのように?
吉野:高校時代の生徒会の仲間にどうやって伝えたのかは忘れちゃいましたね。ふつうに「トランスとしてやっていくわ」くらいで、それぐらいでしたね。
山下:大学の自治会での活動について、もう少しうかがいたいのですが。
吉野:大学に入って、1回生のあいだはまじめに授業を受けて勉強してたんですね。でも、当時はユニバーサルトイレも少なくて、トイレにも困る状況がありましたし、集団健康診断は男女に分かれていて、入口で30分ほどもうろうろしたあげく、結局、受けられなかったこともありました。また、高校時代とちがって、大学は周囲の学生の感じがちがうことに悩んでいたんですね。合コンだ何だと勉強する姿勢のない人が一気に増えた感じで、ものすごくしんどくなって、何か目標のあるようなコミュニティに入っていかないと、大学生活はしんどいと思ったんです。それで、大学2回生のときに、「トイレで困ってるので、学生大会でとりあげてほしい」と、文学部自治会の扉をたたいたんです。
そこで、自分が当事者であることを明らかにして、トイレの問題や健康診断で困っていることについて、自治会を通じて大学の執行部にかけあいました。当時は明らかにしている学生はほかにいなかったので、向こうにもインパクトがあったようで、トイレに関しては、申し入れたあと、すぐに動いてくれました。夏休み前に話したところ、夏休み明けにはユニバーサルトイレに新たなプレートが整備されていました。
山下:それは早いですね。
吉野:そうなんですよ。すごい勢いで変わったので、調子に乗って(笑)、加速度的に活動し始めました。文学部自治会のなかにジェンダーとセクシュアリティに関するプロジェクトを立ち上げて、通名通学、健康診断の配慮必要な学生への対応、教養科目でジェンダー系の授業を増やすことなどを大学側に求めました。
山下:大学当局側は聞く耳を持っていたんでしょうか?
吉野:最初のとき、私が助けを求める一当事者だったときだけは、ですね……。
山下:闘うようになってからは、態度が変わった?
吉野:完全に変わりました。たとえばセクハラのガイドラインについて、学生500人にアンケート調査して、回答を分析して当局と交渉したんですが、向こうは「こっちもやっている」という感じで、かたくなな対応でした。あるいは、学園祭のときに出した横断幕に「セーファーセックス」という言葉があったんですが、「近隣住民の目もあるから、その言葉を使うな」と学生部が言ってきて、揉めたこともありました。「もしかしてエッチな言葉だと思ってるの? 学生にとって大事な問題であることがわからないのか」と言ったんですが、横断幕を強制的に撤去されて、また出すみたいな攻防をしてました。私が何度となく学生部にツメに行くので、ほかの用事で訪ねても、職員がいやがって誰も出てこないくらいでした(笑)。
山下:私も、大学時代はいろいろやってたので、わかります(笑)。そうすると、自治会の人とは、いっしょに闘えている感じはあったんですかね。
吉野:そうですね。でも、文学部の自治会はよかったんですが、全学では理解する人ばかりではなくて、「学費や施設の問題を自治会がやるのはわかるけど、ジェンダーやセクシュアリティなど個人の問題をやる必要があるのか」と言う人もいましたし、「フェミナチ」と言われこともありました。
*2 FTM(Female to Male): 出生時に女性という性を割り当てられたものの男性として生きることを望む人。その逆はMTF(Male to Female)。現在は「トランス男性」、「トランス女性」という言い方もメインになってきているが、ここでは当時の用法として記述している。
手術、裁判、その後
山下:手術の話をうかがいたいと思います。くわしくは、ご著書を読んでいただくのがよいかと思いますが、さしつかえのない範囲でお話しいただければと思います。手術を受けられたのは、何歳のときでしたでしょうか。
吉野:23歳です。大学時代を通して、自分のなかにあった男女二元論が解体されていって、それで楽にはなっていたんですが、やっぱり胸をとりたい気持ちは一貫して変わらなかったんですね。1回生のときに行った埼玉医科大は正規医療を始めた大学病院だったんですが、そのころ大阪でも準備を進めているというので、大阪医科大を紹介されました。2003年の1月に大阪医科大を受診して、精神科医の診断を受けて、大学病院のなかで承認されました。ただ、治療が可能になったのは2006年になってからで、2006年5月に手術を受けました。
執刀医には、「トランスジェンダーや性同一性障害の人は逆の性になればうれしいと思っているかもしれませんが、男の見かけになりさえすればいいという問題ではないんです。傷が残らないとは思ってませんが、胸が平らになりさえすればいいということでもありません。術後にどう充実した人生を送ることができるかが大事なので、ベストを尽くしてほしいです」と伝えていました。
医者からはリスクの説明はなく、「失敗の可能性は想定しなくてもいい」とまで言っていたんですが、術後、患部はまったく治っていかず、どうもおかしいと思っていたら、6月になって「患部は壊死している」と言われました。「なんで壊死したのか」と訊いても医者は説明できないし、その後も、信頼できない対応が積み重なっていきました。それで、一度、質問状を出したんですが、「病院には何の責任もない」という応答だったので、これは訴訟しかないと、裁判を起こしました。自治会活動でつながってきた人たちが裁判支援の会をつくってくれて、そこから弁護士を探したり、鑑定医を探したり、学習会をしたり、訴状のための資料も自分たちで集めたりして、翌年の3月に提訴したという流れでした。
山下:裁判はどうなったんでしょう?
吉野:途中、裁判長から和解勧告があって、それを双方が拒否して、証人尋問をして、そのあとの裁判長の心証開示は、「こちらに悪くはならなさそうだ」と弁護士も見立てていたんですが、このまま判決までいっても、認められるのは説明義務違反だけで、和解に進めたほうが、和解条項をつくることができるので、そのほうが運動の意義があると判断して、和解しました。
山下:和解条項はどんな内容だったんでしょう?
吉野:①一部説明義務違反を認めたうえで慰謝料を払うこと、②今後、大阪医科大のジェンダークリニックが手術をする・しないの判断は、この裁判とは関係ないという公式見解を出すこと、③今回の手術で起こったような連携不足を解消するため、ちがう科でもスムーズに連絡をとれるなどの改善を行なって報告すること、④ジェンダークリニックにかかわる医師、看護師に私が話をする場を設けさせること、の4点です。
山下:吉野さんが起こした裁判に対して、せっかく始まった正規医療に対して裁判を起こすなんて、という当事者からのクレームがあったということでしたね。
吉野:バッシングはいろいろありました。何も知らない人たちが好き放題言っているのはまだしも、当事者からのバッシングには精神的にまいりました。「男を目指しているようには見えない」とか、「正当な当事者ではない」とか、「中途半端なヤツが医療を使うな」とか、「医者と良好な関係を築いて、これから先も治療をしてもらうことが大事なのだから、ことを起こすべきではない」とか、「おまえのせいで医療がストップしたらどうするんだ」とか……。
制度さえ継続できたら医療の内実はどうでもいいのかと思いましたが、当時は、大学病院に拠点が広がりつつあったときで、出鼻をくじかれたというような反応を示す当事者が多かったですね。
山下:それはつらいですよね……。実際に医療はストップしたんですか?
吉野:大阪医大では、裁判後も何例かは手術はあったんですが、その後、止まっていた時期がありました。裁判での大阪医大の主張は、術後の私の生活に問題があったから壊死したというもので、いわば自分たちの手術に落ち度はないと言っていたわけです。なので、裁判の和解条項には、大阪医大のジェンダークリニックの方針と、この裁判は関係ないという公式見解を出すという条項もありました。でも、裁判後しばらくして手術がストップしたので、はたからみたら、吉野が裁判をしたから手術がストップしたように見えたんですね。
山下:全国の状況は?
吉野:ちょうど裁判を起こした2007年に、性別適合手術を始めた埼玉医科大学の医師が退官して、一大拠点だったのに手術が止まってしまったんですね。美容整形の個人病院でも、乳房切除や精巣除去というレベルの手術の症例はたくさんあるので、そうした個人病院と正規医療が連携するというかたちで、関東では再編が進んでいきました。いまも、札幌、山梨、岡山など、性別適合手術ができる拠点はかぎられていて、でも患者が多いので、受診するのにも抽選制といった状況はあります。認定する精神科は、少しずつ広がっていて、ホルモンを打つぐらいだったらできる病院も多いですが、その先に進もうと思ったら、いまだに個人病院でやるという当事者も少なくないです。
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