インタビュー:野崎泰伸さん「生の無条件肯定を」

野崎泰伸(のざき・やすのぶ)
1973年兵庫県生まれ。大阪府立大学大学院人間文化学研究科博士後期課程修了・学術博士号取得。哲学・倫理学を専攻。立命館大学非常勤講師。著書に『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(白澤社2011)、『「共倒れ」社会を超えて――生の無条件の肯定へ!』(筑摩書房2015)など。

——————————————————
日 時:2015年8月25日
聞き手:野田彩花、小林、津路鳴烏木、山下耕平
初 出:もじにわ第弐号(2016年3月28日/編集:なるにわ/発行:特定非営利活動法人フォロ)
——————————————————

野田:まずは野崎さんの生い立ちからうかがいたいと思います。

野崎:私は1973年に、へその緒が首にまきついた仮死状態で生まれました。脳性まひという障害を持って生まれてきた、ということです。乳児期は障害がわかりづらかったのですが、2歳半ごろ、病院で身体障害の認定を受け、翌年から障害を持っている子どもばかりが集まる保育園のような場所に行ってました。

野田:小学校入学後は?

野崎:「保育園」の子どもたちといっしょに、園の近くの養護学校に行っていました。毎日訓練があって、障害を克服することで社会参加の道がひらけるという考えの学校でした。私も毎日、機能訓練を受けていました。

訓練は1時間目にあるので、学校へ行ったらすぐ訓練。足の曲げ伸ばしとか、関節をゆるめたりとか……それも特別な技能も持っていない、ふつうの先生が担当するんですね。理学療法士が教員に指導して、教員が訓練指導にあたっていた。

その結果、小学校高学年のころ、今と同じくらいに、ふらふらしながらも歩くことができるようになりました。養護学校の先生は「歩けることがいいことだ」と思ってますし、自分でもそう思い込まされていました。

山下:1973年生まれということは、小学校入学時(1979年)が、ちょうど養護学校義務化の年ですよね。進学時に、普通学校か養護学校か、親御さんが迷われたことはあったんでしょうか?

野崎:まったくなくて、「この子は養護学校なんだ」みたいな感じでした。

山下:野崎さん自身が、自分が障害者であると自覚するようになったのは、いくつぐらいからですか?

野崎:とくに強烈に意識させられるような経験はなくて、じわじわとくる視線で、障害を自覚するようになったんだと思います。たとえば小さいころは、ほかの子たちもバギーに乗っているじゃないですか。でも4~5歳くらいになって、まわりが歩きはじめるにつれ、「なんでこいつはまだバギーに乗ってんの?」という視線を、まわりから強く植えつけられたように思います。

山下:障害のことで、いじめられたことは?

野崎:あんまりないですね。近所の子どもたちとも小学校くらいまではいっしょに遊んでました。ただ、年齢があがるにつれて、何となく意識的に離れてしまうような感じはありました。

野田:養護学校では、教科学習は同じようにあるんですか?

野崎:もちろんあります。ただ、私のように身体障害だけがある子どもと、身体障害と知的障害が重複してある子どもが、そこで分けられてしまうんですね。教えられる子どもには教えるけど、教えにくい子どもに対しては、先生は何もしない。たとえば、本人はテレビを見たいか見たくないかという意思表示もできないなかで、テレビをつけたまま、寝かせきりで放置されていたりした。いま思えば、能力主義の教育が、ある種の縮図として養護学校のなかで行なわれていたのだと思います。

中学に入ってからも同じで、5教科ができる生徒にはきちんと教え込む一方で、知的障害のある子は放置されている。それでも、親の立場からすると、家で一人で面倒をみて「この子の将来どうなるんだろう」と思い悩むよりはありがたいわけです。親にとって一番心配なのは、親が死んだ後ですよね。だから親どうしが集まって、お金を出し合って、重度の障害者でも働いたり生活できる場所をつくっていった。私と同級生の人は、今もそういう場所に通っていたりします。

野田:高校はどうされたんですか?

野崎:地域の普通高校に進みました。ひとつ上の先輩に普通高校へ進学された方がいて、私も「ちがう道に行ってみたい」と思ったんです。

ただ、私自身がいわゆる「健常者」とクラスで過ごすのははじめてなので、不安はありました。すごく印象に残っているのが、高1の担任が一番最初に「野崎くんは入試を3番の成績で通りました」と発表したことです。先生が勝手に「この子は身体は悪いけれどがんばってますよ」という言い方をした。私も困惑しましたが、他の生徒はもっと困惑したんじゃないでしょうか。あれはすごく余計な一言だったと思います。

山下:ある種の排除ですよね。「特別な人」「才能のある人」ということにして、向こう側に追いやっておいて、善意で対処する。

野崎:そういうことがあって、私のほうも「もう学校には友だち付き合いを求めない」「勉強さえしておけばいいんだ」と固い決意をしたんです。高校には3年間通えましたが、クラスでは浮いた存在でした。

勉強はおもしろくて、大学にも行きたいと思っていました。でも、親にしてみたら、大学に行くことは無条件に「いいこと」じゃなかったんですね。私の場合、手に職をつけるべきと親は考えていて「市役所の障害者枠を受けなさい」と言われていました。
 私のほうは「大学を卒業してからでも市役所だったら受けることはできる。その間は好きなことをしたい」と言って、親の方はしぶしぶ大学受験を認めてくれました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました