インタビュー:野崎泰伸さん「生の無条件肯定を」

インタビューを終えて

 他者との出会いについて、インタビューのなかで語ってくれた野崎さん。
 他者、という存在についてあらためて考えてみる。
 ともすれば「わかるわかる」とうなずきあうことで安心してしまいがちだが、「わからない」部分も含めて他者なのだ。むしろ、こちらが用意した枠に、おとなしくはまってくれないという意味では「わからない」という感情こそ、自分とはちがう他者に対する正直な反応なのかもしれない。そこで、むきになって相手を否定するでもなく、安心したり、満足したり、自分の受けとめてほしい気持ちを満たすための道具としてでもなく、「問いかけてくる存在」として他者を認識すること。「他者とは存在自体が、答えのない問いだ」とも考えられる。その存在に、自分がゆらぐ。戸惑う。もしかしたら泣くかもしれない。
 気がすむまで、じたばたすればいいのだと思う。たとえ心のなかは葛藤の嵐でも、いま目の前に存在している誰かを、見なかったことにするよりはずっといい。「わたしではない誰か」からの問いかけと向きあうことでしか見えてこない、「わたし」という存在の一面もあるだろう。
 野崎さんがおっしゃっていたのは、自分にも他者にも、答えがないと重々承知しながらも、問い続けることこそが、倫理や哲学だということなのかもしれない。他者からの問いかけを、いちいちまじめに考える姿勢そのものが、また誰かにとっての問いかけとなっていく。そんなふうに、答えのない問いは連鎖し、どこまでもひろがっていけばいいと思う。
 そしてわたしも、いちいちまじめに考えるひとりでありたいと、自分にちいさく誓うのだった。(野田彩花)

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 野崎さんのお話で青い芝の会の活動を知りましたが、青い芝の会の人たちは、生産以外の価値を世間に訴えてきたのだと思いました。それはとても勇気のいることだと思います。自分にはそういった勇気はないのですが、自分は青い芝の会の人たちとは別のことをしてみたいという想いがあります。
 それは、生産活動ができない自分、勉強ができない自分、恋人がいない自分、こういった弱い自分を「無価値な自分」と定義し、「無価値な自分」を他者に向かってさらけ出したいのです。そのことによる「痛み」(人から白い目で見られたり、嫌われたり、もしかしたら共感を得ることができるかもしれない)。その「痛み」のなかから何が見えるのか、どういったものが生まれるのか。そういったことをやり続けてみたいと思います。「無価値な自分」を人にさらけ出したりすることも、勇気のいることだと思います。(津路鳴烏木)

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 野崎さんとは同じ齢で、同時代を生きてきたという親しみがある。しかし、私は埼玉県の郊外育ちで、いわゆる「健常者」でもあるし、大きな被災経験もない。自分の問題意識としては、不登校やひきこもりというテーマをおもに考えてきた。野崎さんとは、経てきたものが大きくちがう。インタビューに出てきたテーマに即して言えば、「異なる他者」と言える。でも、なんだか親しみがあるのだ。言葉を尽くさずとも、わかってくれる安心感というか、現象はちがえど、根っこを共有しているというか……。
 世の中の現象というのはいろいろで、実に異なる様相を持つ。そこには差別や格差もあるし、制度の問題を含め、現象している問題はきちんと考えないといけない。安易に自分の狭い了見で「同じ」と考えたり、逆に「異物」として排除してはいけないだろう。
 でも、現象だけを見ているのでは、きっと、狭いというよりも、浅い了見なのではないか。現象だけにとらわれず、自分の置かれている状況、そこから見えてくることを、コツコツと掘り下げていってみると、何か水脈みたいなものに行きあたる。そこには、確かな手応えがあるのだ。
 きっと、世の中の現象はいろいろでも、根をたどっていくと、つながっているのだと思う。現象だけを見て対立するのではなく、その根や水脈を信じられるかどうか。現象としては見えにくいだけに、それは「信じる」かどうかにかかってくる。そして、その「信」は、生の無条件肯定にもつながっているのだと思う。(山下耕平)

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