コムニタス・フォロのサロンでは、隔週でテーマを設定して話し合っている。
少し前のことだが、「おたく」をテーマに話し合った。これについては、参加者の関心度が高かった。私自身は、おたく的リアリティをどこまで実感しているか、ちょっと心もとなかったのだが、ほかのメンバーがハマっている『涼宮ハルヒ』などのライトノベルを読んでみたり、大塚英志、東浩紀、宮台真司、大澤真幸あたりの「おたく」評論を読んだりして、自分なりに整理してみた。

よく言われるように、いまは「大きな物語」は失墜してしまって(天皇陛下万歳とか、経済成長万歳とか、世界同時革命だとか)、個々がそれぞれの物語を島宇宙的に生きている。大塚英志ふうに言えば、物語を消費して生きている。たとえば、どんなテレビを観ているか、どんな音楽を聴いているか、どんな服を着ているか、どんな化粧や髪型をしているか、によって、その人のキャラが決まってしまい、そのキャラを生きているような感じ。以前、バラエティ番組で「キャラがついてよかったね~」とか「キャラをいじって」とか言うのを初めて聴いたとき、なんともキツイ感じがしたのを覚えている。それは、たんにテレビのなかの話だけではなくて、一定の年代より下の世代は、キャラを演じること=自分というのが、あたりまえになっているからだろう。

一昔前は、おたくというのは、一部の“ネクラ”青少年のことで、アニメやパソコンおたくがネガティブにイメージされていた。しかし、いまは、みんなが「おたく」なんだと思う。だから、かつてのようなネガティブなイメージはない。だけど、趣味趣向のみによって人がつながっている島宇宙は、なんだかキツイ。サロンのなかでも話題にあがったが、たとえばネットの世界は、快・不快が原則になっていて、ちょっとしたことで排除する動きがあったりする。どこが相手の不快になるのかわからず、過剰に自主規制をしていたりして、自由なはずのネット空間がかなり不自由になっていたりする。このキツさは、おそらく大方の人が肌で感じていることだと思う。

かといって、ウソくさい「大きな物語」を無理に立ち上げるのでもなく、人と人がゆるやかに開いてつながりあうことはできないのか。「居場所」を考えるときも、そこは大きな問題じゃないかという気がする。特定の趣味趣向で閉じてしまうと、何かキツイ空間になってしまう。そうではない、開かれた、ゆるめる場としての居場所。キャラを演じなくともよい、おたがいの細かい差異を気にしなくともよい居場所。そのあたりは、とても言葉にしにくいのだが、大事な点じゃないかと思っている。