かつての学校や会社に、今よりは居場所性があったとしても、そこには別のキツさがあったにちがいない。一言で言えば、同調圧力だ。近代以前の古い共同体にしても、村社会的な閉塞性は強くあったわけで、それを安易に美化するのはノスタルジーでしかないだろう。しかし、だからといって、現在のほうがいい社会とも言えない。いまは、かつてより格段に自由で流動性は高くなったものの、底なしに不安な社会でもある。

おおざっぱに言って、共同体的な安心感というのは、“みんないっしょ”ゆえの安心感だろう。だから、異質なものは排除される。いまの日本は、古い共同体は崩壊して構造的にはバラバラになっているのに、意識だけは“みんないっしょ”の安心感を求めていて、そのギャップが問題を深めているように思える。異なる他者と共存する知恵のないままバラバラになってしまっているので、個々人が、ほんとうに砂粒のようになってしまって、砂を噛むような社会になってしまった。だから、過剰なまでに“いっしょ”であることの安心感を求めて、空気を読むことや他者の視線を意識することが、かつてないほどナーバスなものになっている。そして、ややもすると、敵か味方かという構図になってしまう。 (つづく)

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←たまたま見つけたのですが、
このお仲間になるのは、ちょっと遠慮したいかな、と……。