以前、フリースクールのスタッフ学習会で発達障害をテーマにした際、「配慮」と「排除」はどうちがうのか、という話題になった。

発達障害の場合、関係を読みとりにくかったり、感覚過敏だったりすることがある(*)。「定型発達」の人たちが当たり前にしていることが当たり前ではなくて、了解している世界にズレがあると言ったらいいだろうか(「過敏」なんて言うのも定型発達の側からの見方で、発達障害の側から見れば定型発達者が「鈍感」ということになるだろう)。

そのズレがあるとき、定型発達の感覚を前提にしていると、その感覚をつかめない人を「あいつ、おかしいんちゃう?」とみてしまう。そこに「発達障害」という理解を入れることで、感覚のちがいを認め、ズレを整理できることもある。それは「配慮」と言ってもいいだろう。しかし、同時にそれは、レッテル貼りにもなりかねず、「発達障害者だからそうなんだ」という「排除」になってしまいかねない。「配慮」と「排除」は紙一重だ。

私は、これは方向の問題ではないかと思っている。自分の感覚を前提にして、相手を異質なものとしてくくってしまえば、それは排除になる。しかし、自分の感覚を自明のものとしないで、相手の感覚の側に立とうとすれば、それは配慮になる。同じように発達障害という概念を入れるにしても、この方向のちがいが、配慮と排除を分ける。そう言えないだろうか。 (つづく)

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*発達障害については、昨年不登校新聞社から出した『発達障害って何だろう?』というブックレットがあるので、よかったら読んでください(自費出版なので、不登校新聞社のサイトから注文できますが、書店などでは販売してません)。