小沢牧子さんが以前、「空気を読む」とか「KY」という言葉を撲滅したい、と言っていた。なぜなら、そこには「多数派の空気に従え」という陰湿な圧力が含まれているからだ、と。そして「察する」という言葉を対比して、次のようなことをおっしゃっていた。

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おたがいを「察しあう」行為はとても大事だ。弱者が強者の気持ちに敏感になるばかりでなく、教師が生徒の気持ちを、上司が部下の気持ちを、親が子どもの気持ちを察するからこそ、おたがいの関係は温かなものになるのだ。「あいつの気持ちも察してやろうよ」というように。だから「察する」にはやさしさが漂うが、「空気読め」には屈折した意地悪が匂う。(『Fonte』237号「論説」2008)
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「KY」という言葉は、すでに死語と化しているのかもしれないが、その陰湿な圧力は、ますます強まっているようにも思える。

小沢さんは別のところで、次のようなことも書いていた。

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ところでこの「察する」だが、どうもこれは欧米語にうまく訳せない。そのことをわたしはかつてドイツで暮らしていたときに感じていた。むりに訳すと「理解する」というニュアンスになる。欧米の社会は「はっきり言葉で説明すること」に重きを置く文化を持っているので、言葉を通じて理解しあうことが関係の作法になっている。またそれが得意だ。その一方、言葉を介さない「察する」という習慣には不慣れである。たとえば狭い通路で人が立ち話をしている脇を、別の人が通りかかるとする。日本だと、立ち話をしている人は気配を察し、無意識のうちに身を動かして道を空け、通る方も当然のごとく黙って、または会釈くらいで通り過ぎる。ところがドイツでは「失礼」などと声をかけ、かけられた方はそこで初めて気がついて「どうぞ」と応じて道を空け、「ありがとう」と通っていくのが自然な風景である。以心伝心、無言のうちに相手の気配を察して動く風習は日本社会では当たり前でも、欧米の社会ではなんだか気味が悪い関係と感じられるかもしれない。なんといっても欧米は、言葉に重きを置く文化を持っているからだ。

わたし自身は言葉ではっきり伝えあうのも気持ちがよくて大好きだが、無言で察する力もまたかけがえのないものだと、その洗練された作法を大切なものに思っている。ただ「察する」は、とかく「迎合」や「卑屈さ」に転化しやすい。転化し堕落してしまった言葉、それがいまの「空気読め」の流行なのではないか。(季刊『子どもと昔話』35号/2008)
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これを読んだとき、私は、いまの社会の陰湿な空気を換気するには、「察し合う」だけではなく、ハッキリ言葉にして伝え合うということも、必要なのかもしれないと思った。ハッキリ言葉にしても大丈夫、そういう信頼が必要だと思う。 (つづく)

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こんなTシャツ、あるんですね。