「なんやかんや言うても、人に認められることが大事なんちゃうん?」

5月くらいだったか、どんぐり大学(*)で「生きづらさ」をテーマに話し合ったとき、参加者の女性から、そんな意見があった。人に承認されてないと、どこにも居場所はない。そんな意味合いだったように思う。実に率直な意見だ。

私は、そのとき、どういう価値尺度からの承認なのかが問題だと思う、というような返答をした。承認される価値には、学歴だとか資格だとか収入だとか、外形的な価値の場合もあるだろう。あるいは、ノリの中心にいるとか、場を仕切っているとか、それこそ「空気」として承認されるみたいなこともあるだろう。中心ではなくても、何らかの“キャラ”を演じて居場所を得るとか、そういうことも、ままあるだろう。学校だとか、資格だとか、外形的で固定的な価値が揺らいでいるぶん、そういう“キャラ”へのニーズは強迫的なまでに高まっているように思える。

しかし、どっちにしても、なんだか上滑りしている感じがする。そこには、おたがいを値踏みし合い、競い合っているキツさがある。そういう尺度で承認されて居場所を得ても、どこまでいっても不安なのではないか。

同じ集会の場で、別の女性は「悪目立ちするのは得意なんだけど、いくらやっても空しい気がする」ということを語っていた。その気持ちも、とても素直でわかるように思えた。

その人が“いる”ということ、存在価値のようなもの。そういうものを認め合う関係が土台にないと、スカスカになった関係のなかで表面的なポジションを競い合っていては、どこまで行っても苦しいように思う。  (つづく)

*どんぐり大学:神戸のフリースクール関係者や大学生で開いている自主大学。

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平野の大念仏寺にて(万仏おねり)。
悪目立ちなんて言ったら仏さんに怒られそうですが、ファッションショーのごとく、着ぐるみ(?)の仏さんが次々にやってくるんです。