フォロのキャッチコピーは、昨年から「いるだけで、いい。」になっている。さんざん議論して、このコピーになった(私は「いるだけで、いいのだ。」と、バカボンパパ風にすることを断固主張していたのだが、圧倒的多数の意見で「のだ」は割愛……)。

でも、これは一番むずかしいことだと思う。
先に紹介した意見のように、誰しも他者からの承認を求めるし、外形的な価値がハッキリしないと、かえって強迫的に承認願望が強まってしまうこともあるだろう。自分自身についても、他者についても、いるだけ=存在価値を認めるというのは、とってもむずかしい。そんなのは、青くさい夢想にすぎないのだろうか。

私は、これも「あれかこれか」ではないのだと思う。どんな場であっても、人が集まればゴチャゴチャもするし、競い合いも生じてしまうし、値踏みし合うこともあるだろう。しかし、どこかで、いるだけ=存在価値を認め合っているのと、そういうものが希薄になって上滑りしているのとでは、ちがうように思う。人がいることの価値というのは、自分でも認識しにくいものだし、言語化もしにくい。ましてや外形的な価値にはならない。だけど、つねに関係の底流にあるものだろう。それが、かつては無意識のままにしていても、わりとうまくまわっていたのだろうが、いまは、放っておくと、どうもうまくまわらなくなっている。そういうことが言えるんじゃないだろうか。

だから、「居場所」であることを、あえて意識化すること、言語化すること、そして折り合いをつけたり異なる他者と共存する知恵をつむいでいくこと。そういう知恵が必要になっている。そうでないと、居場所のバトルロワイヤルみたいなことになりかねない。 (つづく)

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こんなのがあるんですね。肥料に使うんでしょうか。
「発酵」ではなく「醗酵」と書いてるわりに「糞」は「ふん」なんですね。
まさか牛の「粉」(肉骨粉!)ではないと思いますが……。
牛がフォークとスプーンを持っているのが謎です。
(※本文とは関係ありません、たぶん)