たとえば家族でも、きょうだいで親からの承認を奪い合うことはあるだろう。家族は距離が近いだけに節度を保てず、むずかしい面もある。受けてめてほしい気持ちが反転してしまうこともあるし、ときに泥沼化してしまうこともある。

同じことが居場所にも言える。居場所というのは、もやもやとした、言語化しにくい何かを大事にしている場だ。外形的なものや制度にはなじみにくい。それだけに、節度を保つには知恵がいる。ややもすると、際限なく承認を奪い合うバトルロワイヤル的な場と化してしまう。

外形的なものではなく、自分の「ありのまま」を受けとめ承認してほしい。そういう欲求は誰しも持っているものだろう。人が共同体から引き離されて、それを一手に吸収してきた学校や会社の価値も流動的で不安定なものになって、個々人が砂粒のような存在になってしまった結果、誰もが多かれ少なかれ「基底欠損」を抱えていると言えるだろう。それを親だけが受けとめるのは不可能だろうし、どこかの居場所だけで受けとめることもで不可能だろう。あるいは、底が抜けているからといって、外形的な価値でそれを穴埋めしようと思っても、上滑りしてしまうばかりだ。どこまで埋めてみても、むなしさがある。だから、少しずつ、部分的ではあるけれど、おたがいに節度をもって存在を受けとめ合っていくこと。そういうことしかないように思う。 (つづく)