毎週水曜日は、「映画のじかん」として、映画を観たあと、その映画をネタに話し合っている。先週は今村昌平監督の『楢山節考』、今週は森達也監督の『A』を観た。

『楢山節考』は姥捨山伝説がモチーフの映画。生と死、性、山あいの寒村に生きる人々のむきだしの姿が、淡々と描かれる。そこでは動物も人間も混然としていて、道理では不条理なことでも、自然のなかでは淡々と営まれていく。夜があって昼があるように、死があって生がある。そんな当たり前のことを、なまなましく感じさせる映画だった。とくに痛烈なのは、捨てられる老婆と老爺のちがいだ。死をどう受けいれるかという、逃れられない問いを、まざまざと見せつけられた感じがした。

『A』はドキュメンタリー映画。オウム真理教の内部に入りこんで、そこからオウム信者の姿だけではなく、オウム信者に対するマスコミや警察、市井の人々の姿を、痛烈に撮しだしている。95年の地下鉄サリン事件のとき、マスコミにくり返し登場するオウム信者のなかには、立ち居振るまいに気品のある清潔さを感じさせる人もいて、事件とのギャップにとまどった人も、多いのではないだろうか? この映画を観て、私は、正直、オウムの信者たちに、とても共感を覚えた。眼を血眼にして殺到し、なんとも言えないウソくさい臭いを発するマスコミ関係者や、文字通りの暴力をふるって何もしていない信者を逮捕する警察、その暴力をにやつきながら見ている通行人、それらの人々は、たまらなく醜悪な姿を、森達也のカメラの前にさらしていた。その醜悪さは、自分の醜悪さかもしれない。だから見ていて、苛立たしいのかもしれない。そして、その醜悪さは、世間というものの恐ろしさを、とても感じさせた。

世間は、自分たちからズレた存在を、粘着質な集団性で圧迫する。不登校やニート、ひきこもりでも、同じことは起きている。それは、対象がハッキリしにくいだけに、抵抗もしづらい。しかし、世間にはいろんな人がいる。もちろんのことだが、まったく風穴のない集団ではない。そこに希望があると思う。
次回は、その希望も込めて、『A2』を観ることにしている。