今週の「映画のじかん」では、先週に引き続き、森達也監督の『A2』を観た。『A2』は、地下鉄サリン事件から5年後、オウム信者の居住に反対する地域住民や右翼団体と、オウム信者たちとのようすが撮影されている。
この映画を観て、どこかホッとするのはなぜだろう? 『A』が全編を通じて緊張感がみなぎっているのに対し、『A2』は、ほのぼのとさえしている。もちろん緊迫の場面も多々ある。しかし一方で、反対運動をしていたはずの地域住民とオウム信者とのあいだには、いつのまにか、あたたかい交流が生まれていた。それは、マスコミのテレビカメラの前でも繰り広げられていた光景だが、それがマスコミで流されることはなかった。マスコミは、ひたすら不安や恐怖をあおる情報しか流さなかったのだ。

オウム信者を人間として扱わないような人たちは、彼らとコミュニケーションしているわけではない。メディアによって得た情報ばかりで不安や恐怖をふくらませ、魔女狩りのように狂熱的に排撃している。ところが、直接、コミュニケーションをした人たちは、不安や恐怖感を解消し、実にあたたかな関係をつくっていたのだ。
右翼団体の人たちのようすも、興味深かった。「出ていけといったところで、彼らはどこにも行く場所がない。“死ね”とか“殺すぞ”という文句も一切禁止。我々はオウムの解散と被害者への賠償のみを求める」などと話し、ととても理性的にデモ行進をする。彼らも、世間から魔女狩り的な排撃を受けているからなのだろうか。反対しつつも、そのあたりの共感があるように感じられた。

2年ほど前、私は『Fonte』で森達也にインタビューをしたことがある。そのときに知ったのだが、反対住民のなかでも、オウム信者とコミュニケーションを深めていたのは、地域であぶれている人たちだったそうだ。村長だとか役人だとか、肩書きのある人は、まったくダメ。集団では大きな声を出せても、個々人となると、まったく意見がない。顔のない暴力性とでも言おうか。どういうかたちにせよ、世間からズレている人たちは、その世間の暴力性を身をもって知っている。だからこそ、世間の狂熱から逃れることができたのだろう。

話はちょっとそれるが、最近、子どもが被害者になった事件が大きく報道されていることから、不審者への警戒は、すさまじい。学校から帰る子どもは道草もできない。子どもたちは、知らない大人に声をかけられたら逃げるように教え込まれ、全員に防犯ブザーが持たされている。学校からは、希望する保護者に下校時を知らせるメールが送られる。身のまわりでは事件はひとつも起きていないのに、異様な緊張感に包まれている。この狂熱的な緊張感は、メディアによって増幅されたものだ。そういう不安と恐怖と緊張感を日常的に感じて育たなければいけない子どもたちは、不幸だ。
あおられている不安を鎮め、見知らぬ人とのあいだにコミュニケーションを深めていけば、とてもあたたかな関係と空気が醸成されるはずだ。しかし、それは、もしかすると世間からズレたところからしか、生まれないのかもしれない。そういう意味では、不登校やニート、ひきこもりというのも、関係を豊かにしていく通路なのかもしれないと思ったりした。