先週の「映画のじかん」では、『ガンジー』を観た。その後のサロンでも、非暴力・不服従をひとつのテーマとして話し合った。
サロンでは、自分が身近に受けた暴力として、いじめの話が多く出された。そのなかで、世代によって、暴力の質にちがいがあることがうかがわれた。私と同じ世代(30代半ば)ぐらいだと、文字通り肉体的な暴力も経験している。それに対して、20代半ば以下の参加者たちは、もっと目に見えにくい暴力を受けている。それは言葉の暴力だったり、シカトだったり、より内面的で陰湿な暴力といったらよいか。もちろん今の子どもたちだって、肉体的な暴力を受けることは多々あるだろうが、なんだか時代の空気として、暴力の質は変わっているような印象を受ける。

見えやすい暴力が支配していた時代は、対抗する側も暴力的だった。ガンジーは、そこに非暴力の思想を説き、実践した。ところが、いまの日本のように、すみずみまでシステム化された社会のなかでは、暴力は内面化されている。透明な暴力に包まれているといったらいいだろうか。だから、外に向かって暴発するときには、対象のないムカツキになってしまう。それが、さらに不安や恐怖をよんで、ますます透明な暴力性を強め、管理をすみずみにまでめぐらそうと躍起になっている。

ガンジーは、こんなことも言っていた。
「富の所有によって得られるよろこびは錯覚です。金や所有への執着は恐怖の産物なのです。暴力や不正直が恐怖のあらわれであるように、金や所有に執着するのも、すべて恐怖から来るのです」
「肉体が滅びることで、魂が解き放たれるのであるから、死は決して恐れることではない。ただし、この世に生を受け、手足を授けられた以上、命のあるかぎり手足を最大限に使って奉仕するのが我々の生きる道である」

きっと私たちは、私利にとらわれすぎて、不安や恐怖を極限まで肥大させてきたのだ。そうであるかぎり、この不安や恐怖から逃れることはできないし、暴力は、ますます肥大していくにちがいない。まずは、自分のなかの不安や恐怖をよく見つめることからしか、始まらないのだと思う。