前回の記事にご質問をいただきました。コメント欄で返すには長くなりそうなので、新しい記事として書かせていただきます。
ご質問内容は下記のとおり。
 
山下さんは、フリースクール(や居場所)が制度的に社会に位置づくこと自体に反対なのでしょうか。あるいは、オルタナティブ教育法の根本思想が問題であるとしたら、どのような思想の制度であればよいと思ってらっしゃいますか。 
私は学習権もさることながら、特に金銭面でフリースクール(や居場所)が制度的に保障されることは必要だと思っています。「人が関係を結べる場であるべき」はずのフリースクールに在籍することにもお金がかかること、あるいはそういう場が良心的な人の努力によって維持されている状況は持続性という意味で問題があります。それは「人とつながる」ことにすら格差が生じてしまうということであるように思えます。 
制度保障は、不登校という「問い」について当事者がしっかりと向き合うためにも、必要なことだと思うのですがいかがでしょうか?
 

私自身、フォロの運営費や自分の収入源を含め、お金の問題にはいつも悩まされ続けているので、切実な問題です。受益者負担でよいのかという葛藤も当然あります。ただ、不登校というのは、そもそも制度から外れた問題のように思うんですね。学校教育という制度から外れ、障害者福祉などからも外れる、簡単には腑分けできない問題。それを教育制度に乗せようとすると、オルタナティブ教育法案のように、教育の成果を主張せざるを得なくなって、成功例をあげつらうようなことになってしまう。福祉として制度に乗せようとすると、障害種別の壁がある。そういうジレンマがあると思います。
 
私は、日本のフリースクールなどに求められてきた役割は“居場所”であって、教育機関としてはそんなに必要とされてないように思います。しかし、“居場所”なんて曖昧模糊としたものを公的に位置づけることは可能なのかどうか。
 
大づかみな妄想を言えば、学校をせめて半分くらいにして教育費を思いっきり縮減して、子どもが教育以外のことに時間も空間もお金も使えるようにするのがよいのだろうなと思います。たとえば子ども手当をもっと拡充して、その費用でフリースペース的なものがあちこちにできるようなことになればいいなあと思ったりします。居場所を制度的に位置づけるというよりも、居場所が自主的に成り立つような制度にするということですね。登校/不登校とか、学校/オルタナティブスクールとか、健常者/障害者という線引きの上に立った制度ではなくて。そうなると、ベーシックインカムの発想に近くなるのかもしれません。
 
3年前に書いた拙著『迷子の時代を生き抜くために』でも、このあたりの考えをある程度整理して書いているつもりなので、もしよろしければお読みください。言葉足らずですが、まずはご返信まで。