9月のづら研は、「イヤの研究」だった。きっかけは、相馬契太さんが不登校新聞に書かれた仮説“NOが自己をつくる「人は外骨格」説”(「不登校新聞」464号2017年8月15日)。ほんとうを言うと、今回は別テーマを予定していたのだが、提案者の都合がつかなくなったため、急きょ代案を考えていたとき、この記事を思い起こして、話のきっかけにさせていただいたのだった。

乱暴にまとめてしまうと、記事の概要は、下記のようなことだった。

・イヤなものは受けいれたくないという思いが、自分と周囲の境界線、自分の輪郭をつくっている。
・人にあるのは芯じゃなくて、カラ。
・拒否はよくないことだと育てられると、カラ=外骨格が薄いままで、他人の要求を断れず負担がたまってしまう。それが溜まると、攻撃や身体症状など激しい拒絶にいたってしまう。
・「好き」は「嫌い」でできた骨格の内側で育つ。「好き」の前に「嫌い」が大事。「イヤだ」という感覚はもっと大事にされていい。

これを受けて、づら研では、以下のように研究を進めてみた。

 

●具体的にイヤだと感じる場面は?

・訪問販売。
・服や靴などの店で店員さんに声をかけられること。
・学校。
・引き受けたくない仕事etc…

訪問販売に対しては、オートロックなど、物理的「外骨格」が必要という声もあった。

 

●何がイヤなのか?

・中味よりも、押しつけられるのがイヤ。
・根源的にイヤなものは身体が無理と反応するが、がまんすれば受けいれられることは、ついつい合わせてしまう。
・イヤ/でもしなければ、の二律背反がある。
・相手を傷つけたくないと思ってしまう。
・相手がしてほしいことは、ノーと言いにくい。

イヤには、中味の問題と、関係の問題がある。

 

●親子関係では、どうだったか。

・勉強、習い事、食事の好みまで、自分の主体を奪われていたように思う。
・押しつけられるよりも、「あなたがしたいことは、これでしょ」ということのほうが、抑圧が深い。
・「このおもちゃ買ってあげるから」などと言われ、しぶしぶやっていたことがある。
・イヤなのにがんばったことは、うまくいっても、ほめられても、まったくうれしくない。

親子関係は、子どもからは関係を切れないがゆえに、イヤを言うのも難しい。
親もまた、自分の育ちのなかで抑圧されてきたことがある。負の連鎖がある。
親子関係だけではなく、教師、上司との関係など、タテの関係でイヤと言えない場合と、ヨコの関係で言えない場合がある。いずれにしても、子ども時代の親子関係は影響してそうだ。

 

●イヤが言えずに溜まると、どうなるか?

・アルコール、過食、ゲームなど。
・自傷行為。自傷は気づかずにやっていることも多い。
・夢に出てくる。自分の身体が破損する夢など。
・おなかが痛くなる。
・暴言になるetc…

イヤは、言葉にならないと、身体から出ていることも多いが、そのことが自覚されていないことが多い。自覚されると、言葉になってきたりする。

 

●イヤが自覚される契機は?

・ひきこもる直前に気づいた。
・がんばっているときは気づけない。ストップして初めて気づく、底つき体験のようなところがある。
・自覚されないままだと、過労死や自殺などになってしまうことがある。

 

●「死にたい」について

・「死にたい」という言葉は、どこかインスタントではないか 。その手前に、「苦しい」「イヤだ」「つらい」「逃げたい」など、もっと言葉があるはず。
・余裕がなくなると視界が狭くなって、そこに「死にたい」という刺激的な言葉が響いてしまう。しかし、その言葉の引力はこわい。
・誰も死んだことはないから、死はある意味でファンタジー。
・言葉には受けとめ手がいるし、受けとめられないと育たない。その土壌が足りない。

 

●イヤと言ってみてどうだったか。

・イヤといっても、言う前に思っていたほど、関係は壊れなかったりする。
・大人になってから、イヤを言えるようになったのは、イヤと思ったまま続けていても、あかんことがわかってるから。
・イヤは、具体的にならないと、100/0的な思考になってしまう。
・イヤと言っても、良くも悪くも続くものがある。たとえば学校に行かなくなっても、学校的なものとは、折り合いをつけないことがある。

 

●見えてきたこと

・イヤは、まず自覚することが大事。
・身体反応から言葉にしていくこと。
・溜めて刺激の強い言葉にするのではなく、具体的に言っていくことが大事。
・具体的に言葉にできるには、それを受けとめられる関係(土壌)が必要。
・100/0にしないことが肝要。

(まとめ・山下耕平)