11月3日のづら研は「ハリボテの研究」だった。9月のづら研「イヤの研究」のつづきとして、このテーマになった。「イヤ」という意思表示ができず、自分の「外骨格」が薄いまま、自分をツギハギな「ハリボテ」でおおってしまっていると、それを見透かされるのが怖い。ハリボテの内側を見られるとパニックになってしまう。あるいは、周囲に自分を必要以上に「よく」みせたり、「ふつう」っぽく、ふるまってしまっていて疲れてしまう。今回は、そういう問題を「ハリボテの研究」と題し、研究してみることにしたのだった。


◎ファッション、化粧、ジェンダー

まず、それぞれが自分のハリボテを出し合ってみようということで、最初に話題になったのは、見た目に関するハリボテだった。そこで出てきた意見をいくつか箇条書きにしてみる。

・リア充になりたくて、大学生がおしゃれをするような恰好をしていた。(男性)
・服には興味がなく親が買うものを着ていたが、バイトを始めて自分で買うようになった。(男性)
・IT関連の会社に勤めているときは、ジーンズでラクだったが、職場が変わってスーツを着ていたこともある。しかし、スーツは好きではない。(男性)
・まわりに合わせて、無難な服ばかりを選んでしまう。その年の流行で山積みになっている服を買うので、自分の好きな服を買えない。(女性)

これらを考えてみると、だいたい3つのパターンに分かれる気がする。
ひとつめは「なりたい自分になる」というパターン(しかし、なりたい自分=ふつうであったと発言者は話していた)。
ふたつめは、そもそも服装をハリボテとしてあまり意識せず、しいて言うなら堅苦しいかっこうは好きではない、という意見。
みっつめは、ひとつめとは対照的に「なりたい自分でいられない」パターン。まわりから浮かないために、「みんなと同じ」「目立たない」ハリボテをまとう。

ファッションや見た目に関しては、どうしても女性のほうが、さまざまな意味で気をつかわざるを得ない。そういう力学が働いているように思える。では、化粧についてはどうだろうか。最近は化粧をする男性がいることも承知しているが、今回は、そういう人はいないようだった。なので、以下は女性の声。

・大学に入って化粧をしたが、女子大だったので3日後にはすっぴんに戻っていた。今の職場では、TPОに合わせて化粧をしている。
・人生で化粧をしたのは2回だけ。最初は押しつけられたのでしんどかったが、2回目は自分からやった。しかし、「手間ひまかかる! 自分はすっぴんでいいや」と思った。

「しなくてもいいや」という意見が出るということは、逆に言えば「女性は化粧をするものだ」という、これもある種のハリボテが、世間的には大きな顔をしているからかもしれない。

見た目のハリボテに関しては、どうしてもジェンダーを意識してつくられる部分があるのだろうか。たとえば「女らしさを過剰に演出してしまう」という意見も出た。一方で、「自分は男性だがスカートをはくこともある。初めてのスカートは民族衣装の巻きスカートで、ファッションとしていいなと思った」という意見もあった。ここで、「民族衣装では、男性がスカートをはくこともけっこうあるよね」と盛り上がったところも、個人的にとてもおもしろかった。服装はジェンダーを意識しているという話から、ジェンダーレスな一面も発見されたからだ。

◎自分でないものを装って苦労したこと

ハリボテは、自分を「よく」見せたい、「ふつう」を演出したい、という気持ちからつくられる面もある。「自分でないものを装って苦労したこと」という面では、以下のような経験も語られた。

・精神障害を認めたくない気持ちがあり、職場では隠していた。しばらくしてバレたが、それからは配慮されるようになった。一方で、診断名をもらったときは、占いのようで「当たっている!」とうれしかった。
・大学時代は周囲のノリに合わせていた。
・学生時代、時代遅れの制帽を3年間かぶり通していた。それは、自分がふつうの状態じゃないことに気づいてほしかったからだった。世間的には模範的だと認識されていてが、本人はクタクタだった。
・カトリックの家庭に育ったが、学校ではそれを隠していた。言ってもわかってもらえなさそうな空気だった。

さまざまな苦労が語られたなかで、「ふつうに見られるとラク。でも、それはウソなんです」という発言にうなずく人も多かった。今回、出た意見では、自分を「よく」見せたくて苦労したというよりも、「みんなと同じ」を装って苦労したという話や、一見、「ふつう」で「問題ない」タイプだと認識されていたけれど、内面はとても苦しかったというような話が多かったように思う。

また、「一見、健常者に見られるので、障害者割引を使いにくい場面がある」という意見も。「理想のマイノリティ像」にはまっていないと非難されるのは、誰にとっても(非難する側にとっても)しんどいことだと思う。

私自身、障害者手帳を取って作業所に通っているが、そこにはさまざまな障害を持つ人がいる。総じて「装う」ことが苦手な部分は共通しているが、「障害者」といっても一枚岩ではない。バラバラであり、多様だ。そういう意味で疲れることはたくさんある。だが一方で、「発達障害の人だけの作業所がほしい」といった意見を耳にすると、その気持ちは痛いほど理解できると思うと同時に、違和感も覚える。そうやってどこまでも細分化していって、解決するのか? 私たちを分けてしまえばよい、という視点を問わないことこそ問題ではないのか? このあたりは私自身、渦中にいることもあって、難しい問題だと感じている。いつか、づら研の研究テーマにしてもよいかもしれない。

◎ハリボテの模倣、ほんとうの自分? 生態系

最後のほうでは、下記のような話題があがった。

・義務教育はずっと不登校だったが、大学に入学したとき、メディアでよく見る大学生を模倣してみた。そうすると、いつのまにか、それが「自分」になっていた。ハリボテを先につくって、それが自分にフィットすることもある。
・自分の場合は模倣してもほころびが出た。「ハリボテ」をまとえるのは、ひとつのスキルではないか。
・そもそもハリボテじゃない、ほんとうの自分なんてあるのか? まわりと調整することでできた自分は、ほんとうの自分と言えるかもしれないが、それはとても難しい。自分も環境も変化していくものだし……。

「型から入る」タイプのハリボテから、自分や周囲との関係をつくっていった、という意見に、私は「なるほどな」と感心した。一方で、「模倣してもほころびが出た」という経験や、「ハリボテをまとえるのは、ひとつのスキルなのではないか」といった一歩踏み込んだ指摘にも共感する気持ちがある。意識的、戦略的にハリボテを使っていくことと、そのハリボテが立ち行かなったときの自己否定感について、次のようなやりとりもあった。

・そもそも、人って「生態系」によってつくられるのではないか。自分は周囲との関係に恵まれていた。たまたま「生態系」が合わなかっただけなのに、「自分が悪い。自分はダメなんだ」と思ってしまうことも多いのではないか。
・「能力のある・なし」は、文脈によって決まるのではないか? 学校など、ひとつの文脈だけで決めつけることはない。
・「ハリボテ」という言葉自体が、どこか突き放した言い方で、だからこそ、まとえるのかもしれない。ハリボテを自分にぴったりくっつけてしまっていると苦しいのではないか。

「生態系」という言葉は、とてもユニークでおもしろいなと思った。ニュアンスとしては、「環境や、周囲の人との関係」といったことを表しているのだろうが、それを「生態系」と呼ぶことそれ自体が、自分の置かれている環境や人間関係をちょっと突き放すというか、俯瞰してみている感じがする。

また、「いい・わるい」や「できる・できない」と「(生態系に)合う・合わない」は、難しいことだが、いったん分けて考えることも、ハリボテがうまく機能しなくなったときの自己否定感を冷却させる工夫だな、と思った。それはハリボテと自分がぴったりくっついていると苦しいという発見にもつながる話だ。

今回のづら研で指摘されているように、「能力のある・なし」は生態系の価値観や力学に影響されている。そしてその定義は、多数の側(マジョリティ)がどのように考えているかによって決まってしまうことが大半なのだから。

◎不器用さんのハリボテ

ここからは、個人的な感想。今回のづら研で採り入れたいと思った工夫は、自分の属する生態系を観察することと、ハリボテの自分をある程度の距離を持って眺めてみること。観察とか眺めるとか、どうやら「俯瞰すること」が、工夫の第一歩につながるようだ。

でも。不器用かつ卑屈な私は、どこかで思ってしまう。俯瞰するとか、距離を持って眺めるといった工夫が器用にできるものならば、そもそも苦労しないよね……って。工夫に対して、理屈で納得できる部分と、反射的に「だから自分はダメなんだ!」と自己否定に走ってしまう領域と。その両方が、私のなかにはあるようだ。

それと同時に、私は気づいてる。「ふつうに見せよう」とか「絶対に安全で安心なハリボテをつくろう」とか、あんまりはりきって完璧を求めすぎるから、すぐ潰れちゃうんだってこと。

「ふつうに見せよう」とはりきる→やりすぎて疲れる。過剰適応してしまう→不器用な自分に絶望する→そこからちょっと立ち直って、修正する。

不器用な私は、ほぼこのパターンを繰り返している。だからこそ、あえて私は言いたい。そういう流れこそ、不器用さんの醍醐味なのだ。そもそも、不器用を否定してもしゃーないじゃないか。いや、絶対否定しちゃうけど、そこからのリカバリー力を試されている感じだ。苦労して、ズッコケながら工夫や作法を探していく。不器用さんのハリボテは、そんなふうにしてできているのかもしれない。

以上、「ハリボテさんの研究」報告でした。(野田彩花)