今週の「映画のじかん」では『ゆきゆきて神軍』(原一男監督)を観た。第二次大戦で徴兵され、ニューギニアに派遣されていた奥崎謙三が、戦争責任を問うて各地をまわるドキュメンタリーだ。奥崎は、戦後36年目に、この映画の撮影とともに、ある事件の真相を追うことになる。事件とは、終戦後26日目に起きた、上官による部下射殺事件だ。当時の関係者を一人ひとり訪ねてまわるが、関係者の口は重い。執拗に迫っても、なかなか口は開かない。奥崎は、ときに激して暴力をふるい、ときに遺族の老婆とともに涙する。そうした執拗な追求のなかで、兵士たちが人肉を食べていたことなど、すさまじい事実が語られていく。
奥崎の行動原理は、是非はともかくとして、一貫している。国家には従わず、神の法にのみ従うこと。国家や家族は人々を分断するだけのものであるとして価値を置いていないこと。巨大な暴力である戦争を経験した以上、戦後、それを忘れたかのように、自分の幸福だけを追求することは許さないこと。結果のためには暴力も行使すること。一言でいえば、アナーキストだ。

この映画のテーマは、やはり「暴力」ということになるだろう。戦争という巨大な暴力。その巨大な暴力は、まったく不条理に、人々を叩きのめす。なぜ暴力を受けたのか、そこに微塵も合理性がない。その虚無を埋めようとして、奥崎は執拗に戦争責任を問い続けた。手法の是非はおくとして、奥崎は、ひたすら直球勝負で、この虚無に斬り込むがゆえに、そこに撮された現実は、背筋が寒くなるような肌触りがある。
そして、この虚無は解消されることなく、むしろ深まり、拡散し、私たちの胸底にひろがっている。だからきっと、この映画は恐ろしいのだ。

もちろんカメラを前にして、つくられた現実だということもあるだろう。随所に、そういう意識はうかがえる。おそらくカメラが入らなければ、このドキュメンタリーに撮された事実は起こらなかった。映画自体が現実をつくっている面がある。しかし、それにしても、この映画は恐ろしい……。