フリースクール全国ネットワークから、オルタナティブ教育法案(骨子)というものが送られてきた。1年ほどかけて、議員や学者などとも懇談し、練ってきたものだという。
フリースクールを制度的に位置づけて公的な助成を得たいという気持ちはわかるが、私たちはこの法案には強い危惧を抱き、以下のような意見を送った。おそらく賛否ふくめ、さまざま意見がこの法案にはあることだろう。今後も議論を重ねていくようなので、みのりある議論が展開されることを期待したい。

※このブログでは法案へのリンクを貼り、意見募集先のメールアドレスを載せていたが、まだ同ネットワーク内での意見募集だったとのことで、訂正とともに、リンクを外させていただいた。関心のある方は、直接、フリースクール全国ネットワークにお問い合わせいただきたい。
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オルタナティブ教育法案への意見

                                                                                                                    2010年2月2日
                                                                                                                    NPO法人フォロ

結論から述べると、私たちは、この法案の作成そのものに反対である。以下、その理由を述べる。

日本におけるフリースクール・フリースペースなどは、教育機関としての役割よりも居場所としての役割を大きく果たしてきたと私たちは考えている。もちろん広い意味での学びは、居場所のなかにもあって、それは大事なことにちがいない。しかし、フリースクールなどが、教育機関として認定を受けようとすることは、その広い意味での学びを自ら狭め、教育的な評価視線を居場所に介入させ、居場所を損なう結果となることを危惧する。

この法案は前文において、不登校の解決を趣旨として掲げている。そのことに、まず無理があるのではないだろうか。法案は、現在の日本において学校教育のみが義務教育の制度となっていることを問題としている。そうした状況が不登校への対応を「学校復帰」のみに限定させ、子どもに自己否定感や罪悪感、劣等感を持たせてきたと指摘している。そうした現状に対し、多様な個性に見合った教育選択ができるようになれば「自己肯定度はぐんと高まる」と言っているが、はたして、ほんとうにそうだろうか。不登校は一本しかない学校への拒否でもあるが、それ以前に、「教育」を通じて人が選別化されるシステムそのものへの、身体の奥深くからのノーサインではないか。そのシステムが多様化し、複線化したところで、不登校からの問いに応えることには、まったくならないだろう。

法案は「子ども中心の教育」を認定フリースクールの要件としており、批判はあたらないと言うかもしれない。しかし、認定要件は外形的なものにならざるを得ず、「教育」的な効果(たとえば学力テストの結果や進学率、就職率など)ばかりで判定されることとなってしまうのではないか。

また、法案は、フリースクールやホームエデュケーション家庭が「学習内容および学習環境の水準を維持する義務を負う」としているが、その「水準」とは何なのか。「水準」を満たさず、外形的な評価は得にくいけれども、地道で大事な活動をしている居場所や家庭は、かえって苦しい立場に追い込まれてしまわないか。とくに家庭に対して、こうした「水準」を課すことは、家庭に教育的視線を介入させ、教育家族化(芹沢俊介)を強化することにしかならないのではないか。法案作成者に、そういう意図があるとは思わないが、作成者側の意図を超えて、そうした結果につながることを強く懸念する。

私たちは、教育制度を柔軟化・多様化すること自体を否定しているわけではない。それはそれとして、追求する意味はあるだろう。しかし、それは不登校という現象とはズレてしまう面があるのではないだろうか。

この社会のなかで、経済的な価値と無縁で生きていくことは難しい。学歴が人の商品価値の評価軸となっている現実は厳然とある。いまや、学歴だけではなく、無限に商品価値を求められるようになっている。不登校というのは、そうした社会状況に対する生命の反応としてあらわれている現象ではないか。そして、フリースクールやフリースペース、親の会などは、そうした価値観を根本から問い直し、子どもを教育的な評価軸ではなく、「ありのまま」の存在として受けとめることをうたってきたのではなかったか。

法案は前文において、「自立」「結婚」「社会人」「よき成長」「能力を開花」といった文言を、無前提に使っている。それにあてはまらない不登校経験者の数は膨大にのぼるだろう。フリースクールやホームエデュケーションで育った人でも、そうした当事者の数はけっして少なくないだろう。そして、それは、その人の学びや育ちが悪かったからとは言いきれない。上記のような文言を無前提に使うとき、そうした当事者は否定的な存在として排除されてしまう(くりかえすが法案作成者の意図はそこにないとしても)。子ども・若者の生きづらさは、学校の画一化や硬直化といった視点で捉えきることはできない。

「学校信仰」という言葉があったが、いまや会社も結婚も、かつてのようには信じられるものではなくなっている。極度に不安定な社会で、人が無限に商品価値を競い合わないといけないような社会にあって、子ども・若者だけでなく、多くの人が底なしの不安を抱えさせられている。

不登校という問いに立脚するならば、そうした社会状況への問いとして、いま一度、問い直していかなければならないのではないか。法案の作成は、むしろ自分たちの首を絞めることにしかならないと考える。

以上のような理由から、法案作成そのものに反対を表明する。