ジョン・ケージ(1912-1992)という現代音楽家がいる。有名なのは“4分33秒”という「曲」。フルオーケストラを前に、指揮者が時計をもって登壇。そのまま4分33秒、沈黙のまま時間が過ぎる。しだいに会場はざわめき、そのざわめきが音楽になっている。ジョン・ケージは、音に対する沈黙を重視した音楽家だ。そのきわめつきが“4分33秒”だろうが、この発想が、私はとても好きだ。観客は、お客さんとして音楽を聴きに来ている。そこに沈黙をぽっかりと広げてしまい、お客さんは聴き手ではなく、音楽の主体になってしまう。ジョン・ケージは、禅の鈴木大拙など東洋哲学の影響を大きく受けているが、“4分33秒”などは、とても禅的な発想だと思う。

居場所についても、そういう哲学が必要なように思う。フリースクールに子どもが何を求めているか(親ではなく!)といえば、私は居場所だと思う。居場所とは何かといえば、たとえば空き地のようなものだろう。何かの目的や利益を求めて集まるのではなく、そこに空白があるからこそ、人が集まる。そういう場。スタッフが何かを一方的に与えるのではなく、空き地的な場であるからこそ、そこにざわめきや共鳴がある。そこでは、子どもはお客さんではなく、居場所の主体になる。

フリースクールという言葉は、よく知られるようになった。見ていないが、いまやっているNHKのドラマでも、フリースクールが舞台になっているという。最近になって、フリースクール議員連盟などというものもできた。会長は文科大臣だ。構造改革特区を利用して学校を設立したフリースクールもある。ある意味でフリースクールは認知を得てきたと言える。

しかし、なんかズレている。フリースクールという名称に込められている活動は、オルタナティブな教育だったり、補修塾的な意味合いだったり、適応指導教室のようなものだったり、さまざまだ。もともとは、イギリスのサマーヒルスクールが発祥と言われるように、オルタナティブな教育実践の「学校」だと言えようが、こと日本においては、居場所として求められてきたのだと私は思う。

空き地を空き地として維持するのには、哲学がいる。哲学がないと、そこはあっというまに、目的(商品価値)のために使われてしまう。あるいは、居場所として活動しているつもりでも、まったく無作為に開いていると、特定の趣味趣向の場となってしまったりして、それ以外の人は入っていけなくなってしまったりする。だけど、フリースクールが空き地=居場所でなくなったら、おしまいだ。

考えてみたら、「フォロ」という名前も、広場の意味だ。子どもにとっても、若者にとっても、そしてオトナにとっても、広場であり続けたい。

※近々、「映画のじかん」で、ジョン・ケージのドキュメンタリー映画を観る予定。

※“4分33秒”は、Youtubeでも観られる。 ↓ ↓