尾木直樹の提案をもとに、橋下徹が小中学校でも留年させると言い出して、マスコミで騒がれた。とたんに尾木は、自分の提案とはちがう、自分は底上げをはかって言ったもので、橋下の切り捨てスタンスとは真逆だという。しかし、私はどっちにしても同じじゃないかと思う。
 
不登校新聞社のメーリングリストでも、ハシズムけしからんとの声があったが、オルタナティブ教育法案だとかいう発想と、この留年活用の発想は親和性が高いように思える。留年活用にかぎらない。新自由主義的な教育観とオルタナティブ教育観には、親和性があるのだ。たとえば維新の会の船中八策の骨子には、下記のような項目が並んでいる。
 
・教育行政制度について自治体の選択制
・大学も含めた教育バウチャー(クーポン)制度の導入
・生徒・保護者による学校選択の保障
 
新自由主義的な教育観とオルタナティブ教育観に親和性があること。オルタナティブ教育法案だとか言っているフリースクール関係者に、そういう自覚がまるでない。しかし、そのあたりをちゃんと考えないかぎり、フリースクールとかオルタナティブ教育なんて、まったくダメだと私は思う。
 
何が共通しているかといえば、これまでの一枚岩の学校制度を柔軟化し、流動化させようということである。新自由主義は、そこから能力主義の観点で有能な者を抜き出そうとし、オルタナティブ教育は、独自の教育観をそこから抜き出そうとしている。護送船団型の戦後教育をぶっ壊して、新しい教育制度をつくろうということだろう。一面では、それは必要なことだと私も思う。しかしそれは、不登校というかたちで子どもから出されてきたサインに応えるものではないだろう。
 
これまでの学校は、学校に来ない子どもを、なんとか学校に戻そうとしてきた。不登校運動は、それに対して、学校だけが学び育ちの場ではないとして、フリースクールなど学校外の居場所をつくってきた。たしかに、一枚岩の学校制度がしんどいのはたしかだろう。しかし一方で、学校に来ないならそれでけっこうと、放っておかれてしまうのもやりきれない。そういう相矛盾する両面感情が当事者にはあると思う。それはなぜなら、不登校という「問い」がなかったことにされてしまうからだ。
 
私は、不登校というのは簡単には腑分けできない「問い」だと感じてきた。学校を選択できるものにして、自分に合う教育を選べればそれで解決なんてものではない。私がオルタナティブ教育法案に反対しているのは、学校に行かない子でも社会でやっていけるというチープで上っ面な見方に立っているからだ。しかし、不登校という「問い」は、学校だけではなく社会のあり方をも問うているものだ。
 
学校というものが、自動車教習所のような、技能修得のための上っ面のものになってしまえば、留年だけではなくて、学校はもっと流動的で柔軟な制度であればよいと思う。そのぶん学校は縮小して、子どもの関係の場が時間的にも空間的にも、別に確保されればよいのだ。それは、能力主義とはまったく別の価値尺度で、人が関係を結べる場であるべきだろう。フリースクールなどは、そういう場としてあるのだと私は思っている。