中世、傀儡(くぐつ)と呼ばれる漂白民は、人形をあやつる旅芸人として、全国各地をめぐっていたそうだ。農民のように土地に縛られて生産活動をするのではなく、土地や生産手段を持たず、神社仏閣を転々とし、社会の底辺を生きながら、喜捨(寄付)で命をつないでいた人たち。差別されながらも、一方では、おそれの目で見られていた傀儡(くぐつ)たち。

傀儡は、生き延びるために必死で芸能を磨き、その芸は、やがて文楽となり、いまや古典芸能となっているそうだ。文楽にかぎらず、芸能というのは、本来、そうした社会の底辺や境界領域にいる人たち、いわば無縁の人たちが担ってきたものだろう。

ところで昨日、「生きづらさだョ! 全員集合」というイベントに参加してきた。企画したのは、薬物依存症だった、にゃきさん。アルコール依存症のサバイバーである月乃光司さんはじめ、弱視、高次脳機能障害、見た目問題(顔面動静脈奇形)、機能不全家族育ちなどなど、さまざまな「生きづらさ」の当事者が、自分の生きづらさをパフォーマンスとして演じていた。私も、司会のお手伝いをさせていただいたのだが、参加しながら、これは現代の傀儡ではないか、と感じたのだった。

世間とちょっとしたズレがあるために、生きづらさを抱えている当事者たち。その生きづらさを人前でパフォーマンスとして昇華し演じる姿は、本来的な意味での芸能民にちがいない。ただ、芸能民であるからには、芸を磨いていく必要もある。自分の「生きづらさ」をだだ漏れにしているだけでは、芸能にはならない。自分を少し引いた目で見て、芸能として昇華していくこと。そういう意味で、月乃光司さんは、真打ちの芸能民だと私は思う。

逆に言えば、いま渦中にある人が、すぐ芸能にまで昇華することは、なかなか、むつかしいことかもしれない。けれども、だだ漏れだろうと何だろうと、人前にさらしていくうちに、だんだん磨かれていくものがあるのだろう。だから、こうしたイベントが続いていくということは、現代の傀儡(くぐつ)を輩出していく磁場となるにちがいない。そして、後世には古典芸能として、国立劇場で演じられたりすることになるのだ、きっと。 (山下耕平)

 
写真は撮り忘れたので、6月に應典院で開かれた際の写真です……。