今回のづら研、「評価」をテーマにさまざまな興味深い意見が交換された。
けれど、いま私が考えるのは交換された言葉そのものよりも、言葉以前のもっとどろどろとした部分のことだ。
づら研での話し合いをきっかけに、人間の皮膚のうす皮一枚下にあるものを覗き込んだような気持ちになった。あるいは私自身が、ふだんはあまり意識されることのない場所に潜っていったような。
本当に、人間っていうのは何なんだろう。
その問いを抱えて、私はどこまでいけばいいんだろう。
そんな、途方にくれて立ち尽くすような気持ちを、あと何回繰り返すのだろう。
そんなことを考えたのは、「評価」というものがひとりきりでは完結しない事柄だからだろう。
自分を見てくれる他者の存在なしには、自分の輪郭すら曖昧になってしまう。「評価」というのは、私たちの輪郭の一部を決定してしまうほどの力を持った「まなざし」のことなのかもしれない。私たちをとりまくそのまなざしは、やさしいものばかりであるとは限らないし、やさしければそれでいいのかと問われれば、それは少しちがうようにも思う。
また、まなざしは外部からのみやってくるものでもない。時には自分の内側で、「他者」のまなざしを生み出してしまうこともあるだろう。そういうややこしさも含めて、複合的で、多面性を持ち、相反することを同時に求めて生きている。
少なくとも、私はそういう人間だ。
自分のことを見てほしい、受けとめてほしい、つながりたい。人間の持つそういう欲求には果てがないようで、本当のところ、とてもこわい。その果てしのなさを、他者に求め過ぎることなく、自分自身で受けとめていかなくてはいけないのだけれど、そういうことが、誰にとっても本当にむずかしくなってしまっていると感じる。
それが何の「せい」なのか、はっきりと断じることはできない。ただ、本来地続きであったものが、どんどんばらばらに切り取られていってしまっているような、そんなうすら寒さを感じていることは確かだ。
いまの社会では、という一般論よりももっとずっと身近で、内面的なところで。
最近の私は、他者からのまなざしがすこし重い。
そんなふうに感じるのは、向けられるまなざしが、地続きであったものから剥ぎ取られ、先鋭化されていて、その分だけかえってどろどろとした願望が剥き出しになっているからなのかもしれない。それと同時に、私が誰かを見るとき、そのまなざしは、過剰な期待を、都合のよい幻想を含んでいないと言い切れるだろうか。
そんなことを、考えずにはいられない。
(のだあやか)