なるにわ     Nar’nywa

「なにものか」でなくともよい場所

いまの世の中、なんだか、みんなが値踏みされてます。学校に値踏みされ、会社に値踏みされ、親からも値踏みされ、友だち関係においてさえ、おたがいに値踏みしあっている。多くの人が「なにものか」でなければならないと自分を追い立てつづけ、そのことに疲れ果てている。そんな感じがします。
なんだか、ヘンです。「なにものか」でなくても、人が居られる場所をつくりたい。そんな思いから、NPO法人フォロでは、「コムニタス・フォロ」という若者の居場所を開いてきました(2006年10月~)。そして、なんだかんだありながらも、いろんな人が集い、いろんな活動が生まれてきました。この「コムニタス・フォロ」は会員制をとってきましたが、よりゆるやかに、さまざまな人が気軽に立ち寄れる場所にしたいとの思いから、発展的に解消し、“にわ”にすることにしました。その名を「なるにわ」と言います。
以下、なるにわに込めた思いです。
なるにわで大事にしていることのひとつは、人を役割や経歴で見ないことです。たとえば高学歴だとか低学歴だとか、働いているとか、いないとか……。逆に言えば、外からの失礼な「名指し」に萎縮しないことも大事です。「なにものか」レースにうんざりして、道をちょこっとでも外れると、たちまち「不登校」「ひきこもり」「ニート」「発達障害」などなど、専門家を名乗る人たちから、自分が望んだわけでもない名前がつけられてしまいます。世間には、さまざまな名前で私たちを分類し、区分しようとする動きがあります。けれども、その名指しに、自分自身を乗っ取られてはいけない。自分ではない誰かが貼り付けていった名詞を、みずからの代名詞にする必要なんてないのです。そんな名前を返上して、人と人が出会う場所。なるにわは、そんな場所であってくれたらいいなと思います。

“お庭”です

なるにわは、いわば“お庭”、人が集まる場所です。ふらふらと人が立ち寄って、おしゃべりしたり、くつろぐことができる。はじめは知らない人どうしでも、ちょっと話してみたら、気の合う相手が見つかるかもしれません。
“お庭”は、たがやして“畑”にすることもできます。たがやすというのは、人が集まり、関係をつむいでいくこと、です。そして、そこに自分の根を伸ばすこともできる。
根を伸ばすために必要になってくるのは、ざっくりとした言葉でいえば「信頼」かなと思います。信頼は、関係のなかでつむいでいくものでしょう。そして信頼は、きれいなものばかりではつむげない。豊かな土壌が、さまざまな菌によって育まれるように、信頼は、いろんな人がいて、楽しいことも苦労も分かち合い、もめごとさえも養分としながら、時間とともに醸し出されるものなのでしょう。それは、自分自身をたがやすことにもつながっているのだろうと思います。
でも、つながりに疲れてしまう、ということもあるでしょう。静かな“池”のほとりでボーッとするような「ひとりの時間」も、なるにわでは大事にしています。

枝葉は自由に

ネットで「なるにわ」と検索すると、「○○になるには」と、資格やら職業やら、まさに「なにものか」になるための情報であふれています。でも、「なる」という言葉は、第一義としては、「なるようになる」とも言うように、“Let it be”の“be”ではないでしょうか。辞書には、1番目の意味として、こんなふうに出ていました。

1.無かったものが新たに形ができて現れる。

①動植物などが生ずる。うまれでる。
②《生》草木が実を結ぶ。みのる。
③なりわいとする。耕作する。 (広辞苑第6版)

きっと、いまの世の中では、「なるようになる」という生きものとしての流れを無視して、無理やり「なにものか」になろうとするからしんどいのでしょう。

では、なるにわでは、どうなのか。ここでは、「何になっても、ならなくてもいい」と思っています。土壌の部分だけはゆるやかに共有し、そこに根がはられ、芽が出たならば、枝葉は各々が思うように、自由に伸ばしていけばいい。方向性なんて、てんでばらばらでかまわないのです。

ひきこもった状態のまま生きのこるにはどうしたらいいかを考える枝葉があってもいいし、賃金労働に参加するための戦略を考える枝葉があってもいい。生きづらさについて、がっつり語り合う枝葉があってもいいし、とりあえず各々の問題や背景は棚に上げておいて、楽しくティータイムをする枝葉があってもいい。すでに繁っている枝葉に参加するもよし、自分で呼びかけて枝葉を繁らせてもよし、うまくいかなければ葉を落としてもよし。そんな、庭であったらいいなと思います。

この庭を、止まり木のようにする人がいてもいいし、ライフワークのような足場にする人がいてもいい。ナカマが見つかって、別の場所に庭をつくってもいい。

ところで、お庭の“まんなか”には何があるのでしょうか?
実は、何もありません。誰かや何かを中心につくられるのではなく、それぞれにつながりの濃淡を持ちながら、人やものごとが交流し、あるいはただ共存する場所。とくに目的などなくても、ふらふらと来て、ふらふらと帰ってもいい場所。そのぐうぜんから、自分たちのはからいを超えて、ちょっとおもしろいことになったりする。

なるにわは、ゆるやかに、しなやかに、人がつながっていく“庭”です。お気軽に、お立ち寄りください。

2014年3月20日
特定非営利活動法人フォロ
(旧コムニタス・フォロ)