今回のづら研のテーマは「痛みの研究」だった。小児科医の熊谷晋一郎さんが「物語化・意味づけできない痛みは、いつまでも痛みつづける」ということを言っていて、そのあたりをテーマにしてみた。

 

●ざわざわする思い

折しも、川崎市で殺傷事件が起き、加害者がひきこもっていたと報道され、それに対する抗議声明が出されるなか、練馬区では父親がひきこもっていた息子を殺害する事件が起きた。当事者のなかにも、さまざまな声があり、どう整理していいかわからないという、とまどいも聞こえてきていたので、まずは、ざわざわした気持ちを出し合ってみることにした。

・事件の痛みが大きく、報道の偏見を問うだけでは済まないものがあるように思う。

・そもそも、当事者には痛みがある。事件によって、その痛みが想起されているところがあるように思う。情報を見ないようにと思っても、入ってきてしまうし、SNSなどは、つい見てしまう。引きずられるような引力がある。

・語れなさがある。そういうものはメディアにもSNSにも出てこない。

・あえて、SNSなどにも何も書かないでいる。書いたら激しくなりそうなので。

 

●どんな痛みがあるか

その後、それぞれの痛みについて、出し合ってみた。

・イヤな記憶ほど、鮮明に残っていて、それが痛みにつながっている気がする。記憶が録画されている感じで、何回も再生されてしまう。

・心の痛みと身体の痛みはいっしょのところがある。精神的にしんどいと、身体が痛んだりこわばったりする。

・怒りも残りやすいし、痛い。やけどの跡のようにヒリヒリする。痛いまま消せない。

・宿痾(治らない病気)みたいなところがあって、付き合い続けるしかない面もある。

 

●人にわかってほしいか

また、自分の痛みを人にわかってほしいかについて、出し合ってみた。

・昔は、リストカットをしたり、母親にあたったりしていたこともあったが、言葉でアウトプットできるようになって、いまは、わかりあえないことを前提に、気持ちをアウトプットすることができるようになった。

・痛みは、言葉以前のところがあって、下手に人に言葉にされたくないところがある。

・うつの場合もそうだが、自分でもよくわからないことが多い。

・痛みを相手にわからせようと相手を殴ったりしたら、自分が社会的制裁を受けてしまうと思って、やめたことがある。

・こちらから伝えるより、察してほしいと思ってしまう。

 

●しのぐ工夫

痛みをしのぐ工夫については、下記のような声があった。

・自傷行為など、痛みの置き換えでしのいでしまうと、ちょっとしんどい面がある。

・マインドフルネスや呼吸法など、言葉にするのではなく、身体面での工夫もある。

・医者に行ってもよくわからず、ゆるい安定剤などでしのいでいる。ご飯を食べたり、ほかのことに集中するなど、意識をそらしたほうがよかったりする。

・意識をそらす方法としてあがったもの:テレビ、アニメ、ネット、Youtube、ゲーム、甘いもの、お酒、どうでもいいおしゃべりetc…。

・キツい人と接するときは、1枚、衣をはおるように、防御する。

・女性のほうが痛みをやわらげるのが上手な気がする。男性は武勇伝にして美化していることもある。たとえば、戦争体験者の方など。ビジュアル系のバンドも、ある意味、痛みを美化して表現している?

・グチを言うことで楽になることはある気がする。四十肩は1年くらいは治らないらしいので、当面の解決方法はないが、グチっていたら、ちょっとマシになった気がする。

・感覚過敏など、知識によって整理されるものもあった。

 

●再生産を止める

痛みは、家族、職場、さまざまな人間関係のなかで、暴力によって生じていることもうかがわれた。それを「自分のところで止める」にはどうしたらよいか。出てきた論点は、下記のようなものだった。

・家族のなかや、その場の関係のなかでは気づけないことがある。むしろ、「片思い」みたいに、自分を痛めている人のことばかり考えてしまったりする。第三者の視点が必要。

・痛みは、人に聴いてもらうほうがよいのか、痛みはさておいて社会的サポートがあったほうがよいのか。

・事情はわきまえるけど、あまり痛みを見つめられないほうがよいのか。

・不合理を合理化してしまうと(たとえば、「自分のためを思って厳しくしてくれたんだ」と整理してしまうと)、暴力の再生産になってしまう。

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いずれにしても、聞く耳がどうあったらよいかが大事だろうということで、次回のテーマは「聞く耳のあり方の研究」ということにした。(山下耕平)

※次回は、7月8日(月)13時~大阪ボランティア協会の畳スペースにて。参加費500円です。