くだり坂の研究
5月のづら研のテーマは「くだり坂の研究」だった。このところ、中高年の参加者も増えているし、私も40代後半に入って四十肩も痛いこのごろ、「人生、たいして登ってもいないのに、くだり坂に入ってしまっているみなさんと、それぞれのくだり感をくだくだと共有できたらと思います」と呼びかけさせてもらった。
最初は、私の四十肩のグチを聞いてもらったのだが(それについては自分のブログに書いた)、その後、参加者それぞれから、身体面、メンタル面、関係面におけるくだり感などを、出し合ってもらった。
◎それぞれのくだり感
身体面では、膝、肩、腰などの痛みの声があったほか、老眼、どうにもダルい、パッとしない、更年期、エネルギーが落ちている、回復が遅い、記憶力が悪くなった、などの声があった。
メンタル面では、エネルギーが低下してがんばれなくなった反面、無理にがんばろうともしなくなって、省エネで生きられるようになった、というようなことが話されていた。
関係面では、およそ下記のようなことが話題になった。
・世間の目が中高年のひきこもりに対しては若者に対してよりも厳しく、社会的立場がさらに弱くなっている。
・親が後期高齢者に入っている(しかし、まだ要介護ではない)。
・自分に合わない人は、勘が働いてわかるようになった。
・めんどうな関係(職場での関係、年賀状のやりとりなど)を無理に調整しようとも思わなくなってサッパリした(ちょっとサッパリしすぎた、という声も)。
・こだわるエネルギーが落ちたぶん、少しは他者に寛容になれた気がする。
・仕事でも、無理に意義を見出してがんばったりしなくなって、割り切って仕事をすることができるようになった。
◎思春期さん?
だいたいの話としては、エネルギーは落ちてるし、パッとしないし、くだっている感はあるものの、かえって楽になっている面も多々あることがうかがわれた。しかし一方で、思春期ごろから変わらないものも自分のなかにあって、自信のなさ、傷つきやすさ、くよくよスライム、うじうじ怪物など、さまざまな思春期さん(?)が語られていた。
◎痛みが教えてくれている?
私自身の目下のくだり感は四十肩の痛みなのだが、身体的な痛みにしても、メンタルや関係上の不調にしても、若いときにはゴマカせていたことが、無理がきかなくなってゴマカシがきかなくなったぶん、その痛みが教えてくれていることもあるのかな、という気がしている。蓄積してきたひずみは、どこかで出てくるもので、出てきたときは素直に受けとめていくしかないような気がしている。
◎くだり坂の工夫を
山登りにたとえれば、登るのにはエネルギーがいるし、たいへんさもある。ただ、山頂だとか目的もハッキリしているので、そこに向かってエネルギーをかけやすい。それに比べると、くだるのは楽だが、それまでに蓄積した疲労もあるし、気をつけないとコケるし、下手をすれば転げ落ちたりもしかねない。あげく、どこまでくだるのかもハッキリしない。くだり坂には、目標に向かってがんばるのとはちがった工夫や智恵が必要のように思う。「生きづらさ」というのも、これまでは若い人の登り坂におけるつらさという面が強かったように思うが、くだり坂の研究も必要のように思うこのごろだ。今後のテーマとしていきたい。(山下耕平)
本当に、大して登ってもいないのに、もう人生の後半です。社会適応のために、物凄いエネルギーを使ってきたのに。これだけのエネルギーを、普通に適応して使ってきたとしたら、非常に出世して金持ちになって尊敬されていると思います。 一体、人生は何だったのだろうと思います。ただ適応するために努力を続け、いじめられ軽蔑され差別され排除され。これで、もう残りは20年ぐらいというのは。もっとやりたいことがあったのに。人のためになりたいと思って努力をしても、社会適応をしていないから、人のためになるポジションにも就けない。就職していなくてもできることとして、近所のゴミ拾いをしていても、人々は『いい大人が。もっと何か仕事にでも就いて、何かすればいいのに。』という顔で蔑んで見られる。このまま、もう下り坂も半分近く下り終わってしまいました。何のための人生だったのかと思います。
コメント、ありがとうございます。こういうことは、なかなか言う相手もいなかったりしますし、疎外感や孤独感もあることと思います。当事者研究でも、ただのグチでも、何かのかたちで、くだり坂にある人が自分の思いをアウトプットできて、共感できる場を、ぼちぼちとつくっていけたらなと思っていたりします。こちらもくだり坂で、あんまり馬力は出せないかもしれませんが……。