●外来種問題

それから、外来種の問題もあります。先ほど、猪と鹿について見ましたが、そのほかで、よく殺されているのが、外来種です。一時期話題になったのは、ヒアリですね。人間が刺されるとショック死すると、大ニュースになった。あるいは、ツマアカスズメバチ、セアカゴケグモなんかもそうですね。しかし、実際はそんなに危険ではないんですね。しかし、外来種には過剰反応するわけです。外来種は、そこまでして駆除しないといけないものなんでしょうか。

そもそも、日本の場合、牛、豚、馬、猫などは、すべて外来種です。これらの動物は中国から来ている。それから、鳩も外来種です。日本の生態学会が、危険な外来種ワースト100に指定しているほどです。植物にしても、たとえば米も、1500年ほど前に来た外来種で、日本の生態系を根底から変えた植物ですね。日本原産の野菜は、フキ、セリ、わさびなど、20種類ほどにかぎられています。果物も、ミカンも外来種ですし、日本の果物はほとんどない。つまり、日本もほかの国も、外来種だらけです。しかし、とくに最近に来た外来種は毛嫌いされる。ちょうど外国人を排斥するように、外来種を毛嫌いする傾向がある。

●品種改良の問題

考えてみたら、ペット、家畜、実験動物などは、もともと自然界に存在しなかった種類をつくりだして、広めてきたわけです。かわいいペット、役に立つ家畜、純血種、日本の象徴となる動物など、人間に都合のよい動物だけが存在を認められて、そのほかの動物は、日本の「生態系の保存」などを理由に殺処分されている。

たとえば、ブルドックは19世紀につくられた動物で、頭があまりに大きいので、帝王切開でないと出産できないそうです。鼻先が短いので、うまく呼吸できず、睡眠時無呼吸症候群など酸素不足に悩まされていて、このため、体温調整が難しく、呼吸不全や心不全で若死にしやすい。ダックスフンドは猟犬として品種改良された犬ですが、胴体が長いので、ヘルニアなどの関節疾患にかかりやすい。また、耳が垂れているので、ダニや寄生虫や細菌による外耳炎にかかりやすいそうです。イギリスで愛玩犬になっているキャバリアキングチャールズスパニエルは、脳に対して頭蓋骨が小さすぎて、多くが脊髄の問題、脳の障害、慢性の痛みに苦しんでいます。

こういった人の都合に合わせた生体改造が続いています。最近では、ある科学者グループが犬にイソギンチャクの遺伝子を組み入れて、紫外線を当てると、赤く光るビーグル犬をつくったそうです。何の意味があるのかと思いますが、考えてみれば、ブルドックの鼻を短くしたり、ダックスフンドの胴体を長くしたりするのはどういう意味があるんでしょうか。

●経済価値がゼロになっても

さて、ペットの問題、家畜の問題、野生動物の問題を考えてきましたが、こうした問題がとくに顕著になるのは、災害時です。2011年の東日本大震災では、地震と津波で、犬や猫も犠牲になりました。厚労省によると、福島県だけで、犬1万匹が犠牲になっています。おそらく猫も同じくらいでしょう。福島第一原発10キロ圏内では、避難を強いられ、避難所にもつれていけなかったため、ペットを家に置いていった人が多くいました。ただ、新潟県にはペット同伴可の避難所があって、福島県などから移動した人もいました。

また、原発20キロ圏内には農家が多く、牛が約3500頭、豚が約3万頭、鶏が約44万羽、飼われていました。しかし、こうした家畜は畜舎に閉じ込められたまま、餓死しました。豚は雑食で、餓えに迫られて仲間を食べるなど、凄惨な状態だったようです。鶏は、停電してケージの換気扇が止まって排泄物のアンモニア濃度が上がり、断水で給水器も止まって、脱水症状で衰弱死したそうです。牛も牛舎につながれたまま餓死しました。

写真家の太田康介さんは、「ここが地獄でなくて、なんなのでしょうか。せめて、せめて安楽死を彼らに与えてやってほしい」(『のこされた動物たち 福島第一原発20キロ圏内のそれから』2011)と話していました。

そうしたなか、「希望の牧場」が生まれます。原発から16キロ圏内で、330頭の牛を飼っていた牧場主、吉沢正巳さんは、毎日、発電機をまわして、牛に水やエサを与え続けました。被爆しているので、当然、出荷はできません。つまり、経済価値はゼロです。牧場のある場所は4月には警戒地域になって、機動隊が地域を封鎖、住民は緊急避難を命じられました。しかし、希望の牧場では、社長ともども、牛は見捨てられないと、牛舎から放して放牧し、エサを運んで、育て続けました。しかし、放牧場の草は、毎時15マイクロシーベルトと、とてつもない放射線を出していて、ものすごく汚染されていました。その結果、この地域の牛1650頭が殺処分になりました。しかし、吉沢さんたちは殺処分を否定して飼育を続ける。吉沢さんはこう言います。

「この牛たちの経済価値はゼロ、飼育する俺たちは日々、被爆しています。それでも、国の方針に逆らって飼育することに何の意味があるのかを、ずっと考え続けてます」

希望の牧場では、震災から9年経ったいまでも、牛を育て続けています。希望の牧場に対しては、「事故がなかったら、とっくに殺して売っていたじゃないか」という批判もあります。こうした批判に対し、木村友祐の小説『聖地Cs』では、吉沢さんをモデルにした登場人物が、次のように放します。

「おれは思うんだよ。利用できなくなったら殺せばいい、というのは、いのちに対する礼儀を欠いてるって。なんの役にも立たなくなったからこそ、利用してきたおれらは、あいつらの面倒をみる責任があるんじゃないだろうか。恩を返していく義務というか……、いや、やっぱ礼儀かな。ここがおれは大事だと思う。なんでかって、おれたち人間の、家畜のいのちに対する態度は、結局、おれたち自身にはねかえってくることなんだよ。棄民。数減らし。牛が殺処分されるように、今おれたちが同じような扱いを受けてるわけでしょ。ちがう?」(木村友祐『聖地Cs』2014)

家畜を役に立たなくなったから殺処分するのは、ペットがかわいくなくなったから殺処分するのと同じかもしれません。東日本大震災でも、阪神淡路大震災でも、ペットは家族の一員であるだけではなく、社会の一員であるという認識が必要だと言われました。そうであれば、家畜動物も社会が責任を持つべき社会の一員ではないでしょうか。

希望の牧場は、原子力災害という極限状態で、人間と動物がどう向き合っていくのかという問題を私たちに突きつけました。これをきっかけに、ペットや家畜との関係をどうするかが問われていると思います。虐待されている家畜の卵や肉を食べる一方で、ペットをかわいがり、また、その一方で外来種を殺している。私たちの動物に対する態度は不公正ではないのか。そうだとすれば、動物に対する礼儀をあらためて考えるべきではないか。そういう問題のヒントを出せればと思って、今日はお話ししました。

山下:ありがとうございました。では、少し休憩をはさんで質疑に移りたいと思います。