講演会:山下英三郎さん「子どもの関係世界と修復的アプローチ」

山下英三郎(やました・えいざぶろう)
1946年、長崎市生まれ。1985年、ユタ大学ソーシャルワーク学部の修士課程を修了。1986年、埼玉県所沢市において、スクールソーシャルワーカーとして活動を始める。1997年、日本社会事業大学に着任。特定非営利活動法人日本スクールソーシャルワーク協会会長を務めた。著書に『虹を見るために』(黎明書房1989)、『スクールソーシャルワークとは何か』(現代書館1998)、『エコロジカル子ども論』(学苑社1999)、『相談援助』(学苑社2006)、『いじめ・損なわれた関係を築きなおす – 修復的対話というアプローチ』(学苑社2010)など多数。

——————————————————
講演会:子どもの関係世界と修復的アプローチ
講 師:山下英三郎さん
日 時:2013年9月8日
場 所:難波市民学習センター
初 出:『フリースクールにおけるスクールソーシャルワーク導入の基盤整備事業報告書』(NPO法人フォロ/2014年3月刊)
——————————————————

みなさんこんにちは、山下英三郎です。今日は、「子どもの関係世界と修復的対話」というテーマをいただきました。私は、もともとスクールソーシャルワークを仕事にしてきましたが、人と人の関係が私たちの生活の質を下げている場面に出会うことも多く、そこを何とか改善したり再構築したりできないかと考えてきました。そのなかで修復的アプローチという考えに出会ったんですね。修復的対話は、もともと英語ではRestorative Justiceと言いますが、修復的司法、修復的正義、修復的対話などと訳されます。ただ、司法分野だけではなく、学校や地域社会や家庭での対話を促進して、生活が改善されていくことにつながるヒントが示されていると思いますので、私は修復的対話とか、修復的アプローチと呼んでいます。今日のお話が、それぞれの場でヒントになればと思います。

関係に焦点を当てる

少し大きいところから話を始めたいと思います。地球には60億人以上の人が住んでますが、どの人も幸福に生きたいと願っていますね。人類共通の願いです。しかし、現実には、幸福感を持ちながら生きるというのは簡単ではない。むしろ不幸を嘆いたり恨んだりしながら生きている。願っているのに実現できない。だから、そのギャップを問い直す必要がある。不幸な現実を少しでも改善できないか、幸福感を阻害する要素は何か。

外的な要因としては、戦争、貧困、差別など、自分の力ではどうしようもないことがあります。もうひとつは、内的な要因です。自分の心のなかの葛藤や不安、恐怖。そこで、カウンセラーや医療的な関わりを必要とする人たちがいたりする。そのほかに、関係的な要因があります。学校、地域、職場、家庭での関係。これらの三つはバラバラではなく連関しています。この三つのなかで、関係要因による不幸感は、ある程度、改善できます。解決とは言わないまでも、関係によるコンフリクト(摩擦)、トラブルは、調整が可能です。

関係といっても、個人と個人、個人と集団、集団と集団のトラブルがあります。伝統的な手法では、個人に焦点をあてて、一方では激励したり、一方では叱責・懲罰・処罰したりしてきました。いずれにしても、トラブルは個人の原因によって生じたととらえて、個人に焦点をあてて解決をはかることが一般的でした。

関係に焦点をあてると、調停・仲介・修復・和解をはかることになります。しかし一方では忍耐・分断・抹殺・排除もあって、むしろ、いままではこちらのほうが多かった。仲裁の場合でも、それぞれのニーズをくみとるのではなく、妥協して忍耐を強いる。個々人のニーズに焦点を当てての関係改善はなかった。

関係不全の究極的な解決手段は裁判です。たとえば、いじめ自殺事件の訴訟裁判は、1975年~2012年6月まで33件あります(私の調べたかぎりで)。このなかで、遺書がほとんど残されているのですが、その事実をもって訴訟しても、46%が原告敗訴です。関係改善の役に立っていない。むしろいじめの事実を否定されて傷を負うことになる。勝訴は30%、残る24%は和解です。和解といっても、おたがいに納得しての和解というよりも、妥協の産物です。裁判には、おカネも時間もかかる、そういう負担に耐えられず、かぎりなく敗訴に近いようなかたちで和解することが少なくありません。ケースによっては最高裁まで行って敗訴している。解決を目指して裁判を起こしても救いになっていないという現実があります。

暴力・攻撃性の再生産

子どものトラブルに対する伝統的な対応法は、つねに一方的で、子どもに対して、大人が判断して指示したり指導したり懲戒するものでした。規範に対する違反に焦点をあてて、責任を問う。その結果、懲戒・懲罰を加える。さらには、当事者は切り離されて、それぞれに対応される。そして、謝罪や許しを強要する。これは日本だけじゃなくて、アメリカでも同じです。

いじめの場合でも、加害者と被害者を握手させるとか、「相手が謝っているのになんで握手しないの」と言ったりしますが、握手しても問題の解決にはなっていない。それはカタチだけの皮相な解決です。しかも、過去にやったことばかりに焦点を当てている。結果的には、大人に相談したら、いじめは深刻化する。本人たちの気持ちや感情を無視して、一方的に大人が対応して、関係を分断してしまう。いじめを生んだ背景には働きかけることがない。だから、くり返されます。

心理学者のアリス・ミラーは、虐待の世代間連鎖について、長年の研究の結果、虐待された人がかならずしも虐待するようにはならない、と言ってます。その人のことを理解して支えてくれる人が一人でもいれば、虐待しない可能性が高い。そういう人のことを「事情をわきまえた証人」と言ってます。あるいは、大きくなってからでも、支えてくれる人がいればいい。それを「助ける証人」と言っています。これは虐待にかぎらず、暴力性、攻撃性すべてに通じる話です。

いじめの場合も、同じです。いじめている子も被害体験を持っている。そのときに、きちんと支えたり、理解する人がいれば、攻撃の再生産を食いとめることができる。

しかし、まったく逆の手法として、いま「ゼロトレランス」が言われてますね。これは寛容度をゼロにして厳罰化をはかるという考え方です。アメリカで90年代に広がった方法で、今回のいじめ対策法にもゼロトレランスの影響があります。

ゼロトレランスは寛容度ゼロで、どんなささいなことでも厳罰に処すわけですが、実際には効果がなく、いまはアメリカでも弊害が多いと言われています。不寛容な対応がだんだんエスカレートしていくんですね。たとえば、酸素吸引ボンベや爪切りが武器とみなされて出席停止、ボーイスカウトのナイフをクルマに積んだままだったのを発見されて退学、教室のなかで撃つマネをしたら出席停止など……。あまりにひどいので、アメリカでも見直されつつあります。そういう政策を日本は取り入れようとしています。これは子どもを抑圧するだけで、怒りや不満が蓄積されて、どこかで暴発することにしかなりません。怒りの再生産のサイクルです。これでは問題は解決されない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました