なるにわラジオパーソナリティの谷口さんが、文章を寄せてくれたので掲載します。
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私は、不登校やひきこもりに関係する、当事者主体のものを含めた運動や活動に、いまいち関心がない。
それはなぜかと考えた。
私は小学2年の秋から学校へ行かなくなり、結局そのまま小学校を卒業、中学にいたっては在籍中に一度も中学校の敷地に足を踏み入れなかったが、中3の秋も過ぎたころに「これじゃいかん」と思い、通信制の高校に進学して、幸いにも、そこでの卒業までの3年間を、とても楽しく過ごすことができた。
もしかしたら、私の中の元不登校だったり元ひきこもりだったりする要素は、高校を楽しく卒業した時点で、喉元を過ぎたのかもしれない。だから、いまの学校教育のひどい現状や、不登校・ひきこもり当事者への支援という名の人情の押しつけに対しても、違和感は覚えるものの、それくらいしか自分の中からは湧いてこない。
喉元過ぎて時間も経ち、気がつけば体外へ排泄していたから、いまとなっては、せいぜい味を思い出す程度、それ以上の何かが湧き出すはずもないのだ。
2016年11月2日の読売新聞朝刊に、そんな私でも面白く感じる記事が載っていた。この記事は「論点スペシャル・ひきこもりを経験して」と題して、髭男爵の山田ルイ53世と、ひきこもりUX会議主宰の林恭子が、自分のひきこもり経験を、振り返るかたちで語っているものだ。

私はこの記事の中の、山田ルイ53世が語っている部分について、すごくヒキコまれた。話の大筋は、中学2年の2学期から学校へ行かなくなり、ひきこもり状態になるも、テレビで同世代が出席する成人式のニュースを見て衝撃を受け、大検を取り夜間大学へ通うも勉学の世界で負けたという思いが消えず、土俵をずらし、お笑いの世界を目指したという内容なのだが、話の最後の部分で、山田ルイ53世は、自分がひきこもっていた6年間を、「ムダやった」と切り捨てているのだ。

その直後に「そのムダが許せないのが一番問題なのかなとも思う」と書いているものの、私はこの自らの経験を「ムダやった」と切り捨てているところに、すごく共感を覚えた。もしかしたら、山田ルイ53世にとっては、不登校・ひきこもりの経験は完全に過去のことであり、それこそ「喉元を過ぎた」ことなのかもしれない。

私は自分の不登校・ひきこもり経験を、ムダとまでは思わないものの、やはり過去のことに感じている。いろいろな運動や活動にも、そこまで関心はない。だが、いくら自分では「過去のこと」と思っていても、やはり、ときどき、いまも当時の自分と地続きだということを認識させられるような、己や周りとうまくいかないことが、具体例を挙げるとキリがないレベルの小さな要素として、顔を出すことがある。
しかし、私はこれでいいのだと思う。
私にとって、不登校・ひきこもり経験は、すっかり過去のこと、すなわちバックグラウンドである。バックグラウンドである以上、自分が意識しなくても、向こうから、時にしつこいほど、勝手に顔を出してくる。私は、自分に対して「元不登校」だとか「元ひきこもり」といった、ラベルを貼るようなことはしない。そんなことをしなくても、私の日ごろの行ないを見ていれば、そこかしこから漏れ出ているはずだからだ。
それを見て、ある人は仲間だと思うかもしれないし、ある人はラベルを貼るかもしれない。でも、私にとっては、やはり過去の経験は、バックグラウンドであり、語らずに醸し出すものなのだ。(谷口)