4月9日、今村夏子著「こちらあみ子」の読書会をした。参加人数はわたしを含め3名。こじんまりとした集まりだったが、3人がそれぞれに、この小説に畏敬の念を、わかりやすくいえばただならさを感じていたので、とても充実した読書会となった。
まずは、簡単なあらすじを。
この小説を読んでみて、わたしがまず思ったのは、作者の視点はどこにあるんだろう、ということだった。というのも、作者=あみ子であったら、この物語は書かれなかったと思ったからだ。すくなくとも、このような語られ方にはならなかったはずだ。登場人物の誰の視点からも、感情からも、あえて距離をとっている気がする。主人公のあみ子からさえも。
それゆえに、あみ子の孤独はいっそう引き立つ。
本当の意味で、人は圧倒的にひとりなのだ。
それでも他人だらけのこの世界とどうにかつながって、生きていかなければならない。
この小説の一筋縄ではいかないところは、人はひとりだけれど、ひとりだけで生きていくことはかなわない、ということを切実に描いているのに(だからこそ?)、安易なハッピーエンドは提示されない点だ。
自分ではない他者とすれちがってしまう、その瞬間のピシリと胸が軋むような音を、あみ子を通じてわたしたちは何度も聞くことになる。
せつなく、痛々しい音だ。
それでもあみ子は世界に向かって、無邪気に残酷に、何度でも呼びかけ続ける。
「こちらあみ子。おーとーせよ」と。
「でも、誰もあみ子に応えることはできないんですよね」
あみ子の存在が、呼びかけ続けるその声が、親しい人に対してほど暴力性をもってしまうことに注目したのは、Mさんだった。
「それも、無理なからぬことかなって思う。自分の周囲にあみ子のような存在がいたら、やっぱりひいてしまうと思うから」
その一方で、あみ子が最も直接的な暴力を介して、大好きな「のり君」と渡りあうシーンが印象的だとMさんは言う。あみ子は積年の想いを込めて、のり君に「好きじゃ」というが、徹頭徹尾、一方通行で、ある意味では暴力的だ。対するのり君は「殺す」と返す。あとはもう、「好きじゃ」と「殺す」の応酬だ。その果てにあみ子はのり君に殴られてしまう。
「あみ子が周囲とズレてしまうのは、あみ子が言葉以前の世界を生きている存在だからではないか」と指摘したのはYさん。いわく、「あみ子はプリミチブな世界に生きている」。
たとえば、あみ子がわたしたちとまったくちがった道理によって生きているのあれば、そのズレに痛みも感じない。痛みを感じるのは、みんなあみ子のように言葉以前の世界に浸って生きていた時期があるからではないか。人は言葉以前の世界から、だんだん言葉の世界に入っていく。その言葉を通じて、社会とつながっていく。だから、いくつになってもプリミチブさを強烈に放ち続けるあみ子の前で、周囲は苛立ちをつのらせてしまう。でも、それはあみ子がわからない存在だからではなくて、言葉以前の自分、プリミチブな自分が刺激されてしまうからかもしれない、と。
「自分が小さいころの、世界とのつながり、他者が見ている世界とズレてしまう瞬間のことを思い出した」とYさん。
そのように考えていくと、つながり損ない続けるあみ子が、かろうじてつながれている人々の存在も、また象徴的だ。家族と離れたあみ子を引き取ったおばあちゃん(高齢者)、そんなあみ子の欠けた前歯を見せてもらいにやってくるさきちゃん(子ども)、そして、生まれてこなかった赤ちゃん(死者)。みんな「世間一般」の大人が敷いたレールから、おそらくはプリミチブの方向へはみ出している存在だ。
あみ子の強烈な存在感についつい引きずられがちなわたしに、「自分のすぐそばにあみ子のような存在がいたら?」という問いで考えさせてくれたMさん、あみ子の強烈さを「プリミチブ」という言葉でひも解いていったYさん。それぞれに、あたらしい視点と発見のなかで物語と出会いなおすことができるのは、読書会の醍醐味だと思う。一粒で二度おいしいどころか、噛めば噛むほど味わい深くなっていくなんて、スルメみたいだ。
人はみんな、いつかあみ子だった自分を忘れて、というより覚えておくことすらできず、どんどん知識や知恵、言葉といったものが重視される世界へとスライドしていく。そんななかで、感覚世界に止まり続ける存在=あみ子を「日常」へとぽん、と投げ込み、生じる波紋を、美化するでも貶めるでもなく、淡々と描いてみせた作者は、やっぱりただものじゃないと思う。というより、何者なんだろう?
この人が次にどのようなものを書くのか、興味が尽きない。
ちょうど、「たべるのがおそい」という素敵なタイトルのムック本に、5年ぶりの新作が載ったところだという。こちらもぜひ、読んでみたいと思う。(野田彩花)