学習会「自立・依存・支配を考える」
講 師 桜井啓太さん
日 時 2020年11月25日
場 所 大阪ボランティア協会 大会議室
司会進行・記事編集:山下耕平
こんにちは。今日はよろしくお願いします。私は、もともと堺市で生活保護のケースワーカーをしていて、10年ほどは現場にいました。生活保護のケースワーカーしていると、利用者に対して「依存していたらダメですよ、自立しないといけません」と言う場面が日常的にあります。でも、何か変だと思って、そこに居心地の悪さを感じていたんですね。また、現場でいろんなことにぶつかるなかで考えることがいろいろあって、社会人入学で大学院に入って、2016年に『〈自立支援〉の社会保障を問う』という論文を書きました。この論文は書籍にしていただきましたが(法律文化社/2017年刊)、この本では、生活保護だけではなく、自立支援という枠組み自体を問い直しています。
ホームレス自立支援、障害者自立支援、生活困窮者自立支援など、いまや自立支援という言葉は、いたるところで聞くようになりましたが、この言葉にはどうにも違和感があったんですね。たとえば就労支援で履歴書をいっしょに書くとか、キャリアカウンセリングとか、ひきこもり状態にある子どもを訪問するとか、精神疾患の方に通院を勧めるとか、そういうことが自立支援のプログラムになっている。でも、いちいち自立支援と言わなくても、ただの支援でいいんじゃないかと。ホームレス支援、障害者支援、生活困窮者支援ということで、なぜいけないのか。
調べていてわかったのは、自立支援という言葉は、ある時期に生み出されたもので、50年前にはどこにもなかったんですね。過去の論文、国会議事録、新聞、週刊誌、本などを網羅的に調べてみると、「自立更生」「自立助長」など、似たような言葉はあるんですが、自立支援という言葉はありませんでした。それが、1987年にぽっと出てきて、90年代以降、障害者、高齢者、シングルマザー、若者、不登校、ひきこもり、ホームレス、生活保護など、社会福祉のいたる領域に拡がっていきました。
90年代以降というのは、自己啓発、自己実現、自己責任など、自分の能力を高める、自己を出していくことに価値が置かれていった時代ですね。自立支援の拡がりには、そういう社会状況に関わっているのではないか。自立支援というと、一見よさそうに聞こえますが、問題を個人に還元する考え方です。
もっと言えば、自立支援以前に、自立そのものを問うことが必要ではないか。そして依存ですね。依存は自立の反対概念とされています。自立支援が拡がったのと同時期に、依存がダメなものだと言われてきました。だから、依存についても考えてみないといけない。それで、『〈自立支援〉の社会保障を問う』の最終章は、自立と依存をテーマにしました。この最終章だけで1年くらい悩みました。その後、ほかの方たちと共著で『自立へ追い立てられる社会』(インパクト出版会/2020年刊)という本を書いたのですが、その第2章「依存の復権論・序」を私が書きました。今日は、この第2章の内容に沿って、自立、依存、支配というテーマでお話ししたいと思います。
●依存と人間
依存という言葉って、イメージが悪くないですか? みなさん個人はどうかわかりませんが、少なくとも世間のイメージは悪いですよね。でも、依り合って存在するということは、そんなに悪いことでしょうか。人にもたれかかって、自分で立ってないからダメみたいに思われがちですが、人が依り合って生きるのは当然のことです。社会的存在なのだから、むしろ人間の本質的な特徴で、自分ひとりで立つということよりも、ずっと身近なはずの概念です。しかし、悪いイメージがある。なぜなんでしょう。
とくに依存を悪いイメージにしてきたのは、アルコール依存や薬物依存で、依存は疾患、病理だとされています。まずは、そこを腑分けしたいと思いました。いまの社会は自立している個人を前提としていて、自立を果たしていない人は、依存している、欠落した人で、病理として扱っている。それを問い直したい。依存が嫌われて、おとしめられているのは、自立を持ち上げていることと裏腹なわけですね。
依存が人間の本質だということを無視して、人々を個の自立へと排除する。そういう傾向が90年代、2000年代に強まっていった。自立支援は、支援のグレードアップだと思われてきたけれども、実はグレードダウンではないのか。自立以外の支援を捨てている。ふつうに困っているから支援するとは言えなくなって、自立しようとする人は支援しますというように、支援に条件を付けるようになった。つまり、支援を矮小化しているわけです。それは窮屈ではないのか。たとえば、家がない人を支援するのに、わざわざ理由や目的を決めることのほうがおかしくないだろうか。むしろ依存を復権することのほうが、遠回りのようで近道なのではないか。依存している人と自立している人を分けて、依存している人を自立させるというのではなくて、自立と依存の境界自体をなくしてしまうことはできないか。それを依存の復権と言っています。
●依存と嗜癖
ここで、少し語源の話をしたいと思います。依存症では嗜癖=アディクションとも言いますね。アディクションはラテン語のaddicoが語源で、ふける、没頭する、委ねるなどの意味だそうです。奴隷となる宣告を受けるという意味もあったそうで、負のイメージもあったようですが、それが有害なものだとされたのは、18世紀後半以降です。つまり、近代以降のことですね。
依存を意味する英語のdependenceも、語源の古フランス語 dependreは、ぶら下がるの意味、ラテン語 dependereは下に吊るすpendereの意味で、ペンダントといっしょなんですね。ペンダントもぶらさげますでしょう。依存=dependenceは、前産業化時代(少なくとも16世紀以降)の用法では、「従属という関係において結び付けられていること」、「他人のために働くことによって生計を立てる」ということで、大多数の人の正常な状態、社会的関係を指す言葉でした。
人間関係はつながっているのが当然で、dependenceは、その関係性をあらわすものだった。むしろ自立=independenceのほうが不自然で、ひとりで立っているなんて異常です。では、その異常なindependenceな人がどういう人かというと、国王、教会のえらい人、大地主、ほかの人のために働かなくてもお金が入ってくる人、奴隷を持っている人たちのこと、つまり支配層を指していました。
依存にしても、嗜癖にしても、中世までは悪い意味ではなかったのが、近代以降、負のイメージを帯びてくる。自分以外のほかを頼ることは、人間存在にとって当然のことであるにもかかわらず、近代になると、それがおとしめられていく。そこを考えていく必要があります。
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