●質疑

山下:依存は人間の基本的条件で、依存ではなく支配が問題なのであって、依存は復権すべきだという論旨には、目の覚めるような思いがしました。むしろ自分をコントロールし続けないといけないという「自立」のほうがムチャな話だということですね。ただ、最後のお話にもあったように、障害者運動をはじめ、これまで支配されてきた、あるいは社会から排除されてきた人たちが、その支配構造に対して「自立」と言ってきた文脈もあるわけですよね。不登校の場合も、学校が絶対化されるなかで、学校に行かない人に人権侵害が行なわれてきた。それに対して、どこで学び育つのかは自分で決めていいんだという運動が起きたわけです。でも、それが、学校の外でもフリースクールで学べば自立できるみたいなことになってしまっている。支配への対抗としての「自立」と、自立幻想のあやうさについて、どう考えたらいいのか、もう少しうかがえればと思います。

桜井:教育機会確保法(*2)の問題もそうだと思いますが、対抗運動としてのフリースクールなどが、いつのまにか個人の自己選択、多様な選択の話になっていたということですよね。自己決定できて選択できることがすばらしいという論理に差し替えられている。私から見ると、学校文化、学校的なものに対する対抗運動だったものが、いまは学校的なものに支配されたがっているように見えます。準学校のようなかたちで認められたいというような。それでは、自分たちが何と闘っていたのか、何の支配に抗していたのかを忘却しているように見えてしまいます。障害者の自立生活運動についても、自立という言葉を使ったことが悪いとまでは言えませんが、使うことの危険性、使い続けることの危険性はあって、その言葉が変節していたり、当初は支配に抗していた、その理念をなくして、言葉だけが浮いて、取り込まれてしまっている。権力に都合のよいかたちになってしまっているところはありますね。

山下:障害者運動でも、措置から契約へという流れがありましたね。 あるいは当事者主権という言葉もそうだと思いますが、そのあたりは、自立批判の文脈からはどう思われるんでしょう。

桜井:自己決定方針ですね。措置というのは、他人に勝手に決められることなので、それがイヤだというのは当然です。それは大切にしないといけませんが、自己決定、契約ということを盲信してよかったのか。契約には、かならず自己責任がついてきます。他人に決められるのもイヤだけど、自己責任もイヤです。そもそも、完全に自分で決定できることなんて、そんなにあるのかと思うんですね。自分で決めることは大事ですが、決めたことの責任をむげにとらされるのもイヤです。措置か契約かのふたつしかないのは不自由です。自己支配、自己決定できないこともある。なんだか、むちゃくちゃワガママ言っているみたいですけど(笑)。

柳:「個人」というのも対抗言説で、全体主義的な権力支配に対して、個人の尊重を言わないといけなかったんだと思います。しかし、無批判ではよくなかったというのはわかります。次の段階に行く必要があるのだとも思います。ただ、日本では、まだ個人の尊重もできていない段階で、そんなことを言ってしまったら、逆に危ないのではという気もするんですが。

桜井:もっともな懸念だと思います。私が言っているのは、個人ではなく集団を大事にしようということではありません。みんなで助け合いましょうみたいな、地域共生とか共助のような文脈に回収されてしまうことに対しても、常に対抗していかないといけないと思います。私が言っているのは、何でも個人に還元してしまうのはあやういということです。そういう意味では、当事者研究も、最近はズレてきているようですね。難しいところだと思います。

みみ:寄り添い型、伴走型の支援も怖いとおっしゃっていましたが、それはどういうことなんでしょう?

桜井:あまりに寄り添ってくれない状態の人も多いと思いますし、寄り添って支援してほしいという人はいると思います。ただ、寄り添い型、伴走型って、その目的は何なんでしょう。寄り添うことが目的でしょうか。イメージとしてはわかるけれども、そこで行なわれている支援内容のひとつひとつを見ると、よくわかりません。そもそも、支援というのは困っているから支援が必要なのであって、困りごとが解決したら必要なくなるものですよね。当事者の側には、寄り添われたくない気持ちだってある。たまに休みたいとか、ほうっておいてほしいとか、伴走されるのも疲れるとか。そういうことが、この言葉のなかからは生まれにくいように思います。

みみ:私自身もずっと患者で、いろんな支援を受けてきて、いまは支援者として働いています。私自身、患者として寄り添って支援してきてもらった経験がありますけど、休みたいときに休めると言える関係性だからこそ、寄り添い型なんだと思うんですね。安心安全がそこにあるかどうか。何を言っても、この人は私を見捨てないし、批判しないし、怒らない。いまは寄り添ってほしくない、ひとりでいたいと言えてこそ、寄り添い型だと思います。困りごとが解決したら終わりとは思いません。いつでももどれる安全基地みたいに、外に飛び出して傷ついたら、またもどれる。そこで解決するにあたってのヒントをもらえたり、グチを言えたり。それが危険というのは、よくわからないんですが……。

桜井:そこでイメージされているのは、人ですか、場所ですか、それともシステムですか?

みみ:私も、日本のシステムはおかしいと思ってます。病院とか、就労支援とか、福祉サービス全般、おかしいと思うことが多い。なので、いま言ったのは、人を思ってのことです。ただ、それは支援者として仕事をしている人のことです。

桜井:寄り添われたくないときに拒否できる関係を築けているということですね。

みみ:それが支援の醍醐味だと思っていて、安心安全がないと、そもそも自分の意見を言うこともできないです。支援者が一方的に決めて、あれこれ言うのではなくて、寄り添う支援。でも実際には、支援者でも、自分の問題に気づかないで利用者のせいにしたり、利用者に文句を言う人が圧倒的に多いです。

桜井:断ったり拒否できるのは重要で、それがないと、安心安全ではないというのは、よくわかります。でも、それは「寄り添い」なのでしょうか? 寄り添いという言葉は、少しちがうような気もするんですが。

みみ:私も意味をちゃんと調べているわけではなくて、まちがっているかもしれませんが、あれこれ批判したりせずに、ただ、そこにいてくれる人、ということです。自分が悲しくて、わーっと泣いているとき、それを引き受けるのではなくて、そばにいてくれる。

桜井:それは、よくわかりますね。寄り添いに対するイメージが、ちょっとだけちがうのかもしれませんね。

みみ:そうすると、桜井さんの言葉では、理想の支援というのはどういう言葉になるんでしょう?

桜井:難しいですね。支援から逃げられる場所が必要だと言っている人が、理想の支援を言うのは難しいですが、あえて言うなら「逃げられる支援」かな。逃げられる場所だったり、拒否できる支援。理想の支援実践があるというよりは、むしろ、ひとつのモデルに理想化されない、画一化されないほうがいいと思っています。そういう意味では、語れないところがありますね。

山下:支援といったとき、あらかじめ支援者側の持っていきたい方向は決まっていて、方法論だけがちがうということだと、タチが悪いような気もします。たしかに上から押しつけるよりは寄り添うほうがいいと思いますが、でも、すでに方向が決まっているのだったら、おだやかに導いているだけとも言えます。その方向もいっしょに考えることができるならいいとも思いますが。

桜井:方向性のない支援というのが、あるのかどうか……。