このところ、居場所についてあらためて考え直すことが多い。いろんな人と、いろんなところで、居場所について話し合うことも多い。なぜなら、誤解をおそれず率直に言えば、これまでのようなやり方では、居場所が居場所として成り立たなくなってきているからだ。それはフォロだけのことではなくて、あちこち、どこも同じようだ。

社会がスカスカになって、カチンコチンになって、多くの人が、常にガンバって評価されていないと生きていけないかのような緊張状態にある。居場所というのは、そういう価値尺度とは別の尺度で人が集まり、おたがいをゆるめ合うことのできる場のことだと思う。しかし、それがなぜか、いろいろな意味で難しくなっている。紙数がないので乱暴にイメージだけで言えば、何か底が抜けてしまっているのだ。

これまでは、なんとなく無意識のうちに、もやもやっと安心感のようなものが人と人のあいだに漂っていて、それを前提に居場所というのも成り立ってきたのだと思う。それが、スッカスカになってしまっているので、放っておくと、なぜかしんどいことになってしまう。そんな気がしている。だから、居場所をあえて意識化して、言語化し、そして折り合いをつけたり異なる他者と共存する知恵をつむいでいくこと。そういう知恵が必要になっているように思う。

かつて、クロード・レヴィ・ストロースが「料理の三角形」という図式で料理文化を分析していたが、それによると料理は「生のもの」「火にかけたもの」「発酵したもの」の三つになる。「生のもの」はいちばん自然に近い料理で、それに文化的な変形を加えるのが「火にかけたもの」、自然的変形を加えたのが「発酵したもの」、たしか、そんな図式だった。火にかけるというのは、人間の「文明」的な力を非対称的に加える感じがする(ただ、やみくもに強火にすればよいわけではなく、食材の状態をみながら加減をしないといけないが)。それに対して発酵の場合、温度やら湿度やら菌の生育環境によって大きく変化するし、人間が料理するというより、ゴキゲンをうかがいながら、菌の力を貸してもらっているという感じがする。

「居場所」とか、人の集まる場における知恵にも、「火にかける」ような知恵と、「発酵する」知恵のような、両方が必要なんだろうなと思う。「火にかける」というと、なんだか過激に聞こえるが、たとえば明文化したルールのような、自然状態をハッキリ加工するような知恵。「発酵」というのは、おたがいに察し合うことだったり、生き物としてのうごめきを、いい状態に共鳴させるような知恵。そんなふうに思う。

News Letter#25/2010.09.01より