山下:時間も押してきたので、別の観点の質問をさせてください。動物の権利の主張のなかでは、人間中心主義に代わって人格中心主義が唱えられていると書かれてましたね。シンガーは人間(human)と人格(person)を区別して、「たとえばチンパンジーを殺すのは、生まれつきの知的障害のために、人格ではないし、けっして人格でありえない人間を殺すのに比べて、より悪いように思われる」(シンガー『実践の倫理』1979)と言っている。しかし、その主張は障害者運動の側から激しい抗議を受けているわけですね。線引きを人間と動物のあいだでするのではなく、人格で引く。これは、やまゆり事件にも通ずる発想ではないかと思います。でも、以前、読書会をしたときには、人格中心主義はわかる気がするという人もいたんですね。その感覚を、正論だけで指弾するのではなく、そう感じちゃうのは何なのか、考え合う必要があるように思います。

生田:シンガーの議論は衝撃的で、あたっている面はあると思います。しかし、能力という狭い尺度で人格を測っているので、能力中心主義になってしまっている。あの議論は、だから障害者は価値がないではなくて、だから動物を尊重すべきとしないと、たしかに危ないですね。障害者は能力がないから殺していいという人がいるとして、でも、その人もペットは大事にしているかもしれない。つまり、能力だけで見るのではなく、関係性のなかで決まることだと思います。

山下:工業畜産を見ないですませてしまっているのと同じで、知的障害者のことも、自分たちの世界から排除して、それで社会がまわっていると思っているようなところがありますね。見えないところに排除して、そこでどういう扱いをされているのかを知らない。人間のあいだでも線引きをしてしまっている問題はあると思います。

生田:やまゆり事件の加害者は、障害者は価値がないと思っているだけではなく、わざわざ殺したわけで、それは何なのかということがありますね。その攻撃性はどこから来たのだろうと考えています。

山下:動物との共闘というテーマについて、もう少し考え合いたいと思います。生田さんは、野宿者と犬猫との関係は、家族でペットを飼っているのとはちがうと感じたということでしたね。一方的に愛撫の対象とするのではなく、家族・国家・資本から排除された人間と、捨てられた犬や猫が出会って、生活をともにしている。そのちがいは、どういうことなんでしょう。

生田:一般のペットは、文字通り「猫かわいがり」なんです。なでなでして、猫のほうも野生を忘れきってしまう。しかし、野宿の人と犬猫の関わりはちょっとちがっていて、どちらも社会から排除されているなかで、たまたま出会って、おたがいに支え合って生きている。それは、おたがいの力になる関係のように思います。夜回りで僕らが声をかけて、生活保護を勧めても、「こいつがいるからアパートには入れない、だから生活保護は受けない」と言う。ある意味、とても自立しているわけです。

希望の牧場もそうなんです。国家からも排除され、原子力ムラからもいやがられている牧場の人たちが、災害を機に牛と出会い直している。それまでは経済的な道具でしかなかったのに、「動くガレキ」とまで言われた牛と、吉沢さんが言う「反国家的」な行動を起こしている。そのとき、牧場主たちは、あらためて自分たちの存在を、社会のなかであらたな可能性をもつものとして見出している。そういうことが、どんな領域でも起こっているんじゃないかと思ったんです。

山下:なるほど。生田さんは、人間自身が家畜化・ペット化しているとも言っていますね。工業畜産だけの問題ではなく、私たちの日々の生活はシステムに依存している。それを根本的に問い直すことは、そこに乗っかっているうちは難しいですよね。だけど、そこから外れたり、排除されたりしたときに、これおかしいと気づくことがある。ただ、そこでつぶされてしまっていることが大半だとは思いますが、そこで見方を変えていくには、システムからこぼれた人どうしの対話が必要で、それが共闘というテーマになるんだと思います。私も、そこまでは考えてきたことでもあったんですが、そこに動物が入るというのが、視点になかったことでした。

もうひとつ、知的障害者のことで思い出したしたことを。昔、学生のころ介助のボランティアをしていたんですが、自分の思い込みでやっていたなと気づいたことがありました。言語コミュニケーションだけがコミュニケーションだと思っていて、そこで応答が返ってこないから、一方的にやってしまっていたんですが、実はちゃんとサインは出していて、意志は持っているんだということに、あるとき、ふと気づいたんですよね。そのとき、この人を人間として見ていなかったと恥じたことがありました。言語コミュニケーションだけに頼っていると、そこを見落としている。たぶん、それは動物との関係でもそうで、そういうことがわかると、どう扱ってもいい存在にはできないはずだと思いました。そのあたりが、共闘というテーマにつながるのかな、と。

生田:そうですね。身近なところでは、家族のなかで生きていると、枠にはめられていることってあるじゃないですか。親の価値観とか、兄弟間の関係とか、息苦しくて仕方ない。そこから脱出するときに動物が意味を持つことがあるんです。松浦理英子の『犬身』という小説では、主人公は日本的な家族の公理系の中でに苦しんでいたのが、動物との関係によって解放されるんですね。そういうことはたくさんあると思います。

家族だけではなくて、人は経済においても「人材」扱いされていたり、国家にもがんじがらめにされているわけですが、動物との関係で解放される可能性がある。それを共闘と言っているんですね。

山下:なるほど。考え続けていきたいテーマですね。今日は、ありがとうございました。

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学習会のあと、生田さんにピアノ演奏をしていただきました。曲目は、ジブリの映画音楽から坂本龍一、バッハ、現代音楽までと幅広かったです。

◎演奏された曲目

サティ ヴェクサシオン
バッハ ゴルトベルク変奏曲 アリア
久石譲 One Summer’s Day(千と千尋の神隠し)
同 Il Porco rosso(紅の豚)
コトリンゴ すずさん(この世界の片隅に)
坂本龍一 Last Emperor
同 Merry Christmas Mr.Lawrence
同 鉄道員
同 Ballet Mécanique
同 Sheltering Sky
同 Energy Flow
フィトキン Relent
バッハ 主よ、人の望みの喜びよ(ヘス編)
バッハ ゴルトベルク変奏曲 第30変奏
サティ あなたがほしい
坂本龍一 aqua